気の向くままに

山、花、人生を讃える

「自死は何故いけないか?」について思う

2024年09月20日 | 人生

ある人のブログの「『人生案内』なぜ自死はいけないのか」と題する記事を読ませてもらった。
それによると、読売新聞に次のような投稿があったらしい。

「自殺はよいことか悪いことかと問われれば、もちろん悪いこと、ただ自死を考える人はものすごく悩んで生きるのがしんどくなってその道を選択してしまっているのではないでしょうか、なぜ自死はいけないことなのか教えていただきたいです」(50代前半 パート女性)

 

以前にもこのブログで書かせてもらったことだが、当時福島大学で「経営学」の教授をしておられた飯田史彦さんの話によると、学校で先生が子供たちに「いじめは駄目ですよ」「自殺はいけませんよ」というと、子供たちは素直な気持ちで「どうして?」と聞いてくるらしい。そして、その「どうして?」に対して、先生たちも答えることができないらしく、飯田史彦さんに、答えられるように何か参考になる本を書いて欲しいと多くの要望が寄せられたとのことだった。そして出版されたのが「親が子に語る人生論」と題する本だった。その後たしか題名が変わっていたと思う。(わたしは3度読ませてもらいました)

 

悲しいことに、わたしはいまだかつてマスコミに登場する著名人も、あるいは他の誰であっても「なぜ自殺はいけないのか」その理由を語っているのを耳にしたことはただの一度もない。口では「いけない」と言いながら、その理由について語らないのは、「人間は死ねばおしまい」と思っているからに違いない。「死ねばおしまい」なら、「死ねば、それとともに苦しみも消える」わけだから、「自殺はいけない」という理由もみつからない。だから、その理由を語ることもできないということになる。そのくせ、多くの人が「自殺はいけない」と言うのは、口では「死んだらおしまい」と言いつつ、心のどこかに、「死んでもおしまいではない」という思いがあるからだろうと私は思う。

 

さて、それはともかくとして、私の大好きな本『神との対話』という本に書かれていたことだが、人間は「善」とか「悪」とかについてのこだわりが強い。そしてその為に人類は多くの争いを起こしているとのこと。
そして、それに対する神の処方箋は何かというと、善悪で物事を考えるのではなく、「自分が目指している方向に照らし合わせて、そう考えることは役に立つか、役に立たないか」、つまり「善悪」ではなく、「役に立つか」「役に立たないか」で考えることを提案していた。

 

それでいくと、いろいろ原因があるにしても、自殺は今の苦しみから逃れたいという願望から自殺という考えが浮かぶと思うのだが、しかし、「楽になる」ことを目指して自殺するというのは、どうやらあまり役に立たないらしい。楽になるどころか、むしろ反対に、死んだ後、「とんでもないことをしてしまった」という強烈な後悔と、人前に出ることもできない恥ずかしさから、文字通り「穴があったら入りたい」心境で、自ら真暗闇の中に閉じこもり、長い間、後悔の念で苦しむらしい。

だから、自殺は「いけない」というよりも「役に立たない」というのが正解のようだ。

 

もし、自殺願望のある人、あるいは自殺願望なくとも、死んだ後どうなるかについて興味ある人は、飯田史彦著『生き甲斐の創造Ⅱ』を読まれることをお勧めしたいと思う。

 

此の本の中に、失恋して発作的に自殺してしまった青年が、是非とも父母にメッセージを伝えてほしいと飯田史彦に依頼してきたこと、そして父母と自殺した青年との幽明を境にした会話が詳しく書かれているし、もう一つは自殺した夫が、自殺してしまったことをひたすら奥さんに謝りたくて飯田史彦にメッセージを頼んできた夫のこと、そして残された奥さんとの会話が詳しく紹介されていて、どちらも涙なしでは読めない感動があるし、とても興味深いものがあります。
感動的というと誤解を与えそうですが、それは苦しみを乗り越えた後の話であることをお断りしておきます。

 

 ちなみに飯田史彦は「魂のメッセンジャー」として若い頃から、無料で自殺した魂から頼まれるままに全国に出向いておられ、そんなことが10年前で100回を超えると書いておられた。40代半ばごろまで福島大学で「経営学」の教授をしておられましたが、今は大学教授を辞してフリーで活躍されている。

以前に書いた記事ですが、よろしければお読みください。

描いた夢は破れても・・・ - 気の向くままに (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心臓はなぜ動くのか?」

2024年08月27日 | 人生

 下に紹介させて頂くのは、 『生命の実相』 (生長の家創始者谷口雅春著) から一部を抜粋したもので、全文を紹介できないのが残念ですが、大変興味深いことが書かれていると思うのでその一部だけ紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 なおこの本の初版は昭和40年ですので、それを念頭に読んでいただければと思います。

 

以下、引用

たとえば、人間はどうして生きているかというと、心臓が動くから生きているんだ、心臓が止まったら死ぬんだと、医者は科学者ですから、ちゃんとそれを知っていて心臓麻痺を起こしそうになるとカンフル注射をして、カンフルの刺激を与えると心臓が動く、それで生きる。心臓が動くから生きると申しますが、しかし、その心臓はなぜ動くかというところまでは科学は突き止めていないのであります。現在の医学ではまだこの心臓がどうして動くかということはわからない。わからないために、西式健康法の西勝造氏などはどうして心臓が動くかというのは毛細血管の引力であると言い出した。末梢の血管が毛細管になっているために、毛細管の引力によってその方へ液体の血液を引きつけるから、それがポンプ的働きをしてそうして心臓を動かす助けをするのである。心臓壁の筋肉の収縮力というものはそんなに強いものではないので、身体全体に分布しているあの細い脈管の中をこれだけの力をもって血液を働かせているだけの馬力は心臓のエンジンだけではとうてい出ない、それに毛細管の引力というものを考えて、毛細管の引力によって血液を吸い込むものだから心臓の収縮力が助けられて、血液が循環するのであるというような物理的な理屈をつけて説明して現在の医学に対抗しているわけであります。

 

ところが、それも私に言わせれば変な話であります。人間が死んだら心臓もあり、毛細管の引力があってもさっそく血液の循環は止まってしまう。そうすると毛細管の引力も心臓のポンプ的構造も皆血液を循環させる原因ではないということになるのであります。なぜ毛細血管は伸縮して、ポンプ的働きをもって心臓を助けるか、なぜ心臓自身は伸縮して血液を送るかというようなことはわからないわけであります。その「なぜ?」をもう一つ突き止めていった時に、われわれは本当に肉体的構造だけでなしに、物質的構造でなしに、ある不可思議な目に見えない生命の働きというものがあるということを突き止めなければならないわけであります。そういうわけでなぜ心臓が動くか? というところまで突き進んでゆくのが宗教であって、宗教というものは迷信以上のもの、迷信どころではない、科学以上に詮索深いものであります。かくしてわれわれはどこまでも満足しないで、どこどこまでもその原因を追究してゆきます時に、「第一原理」とスペンサーが言ったところのそれに到達するのであります。

 

「第一原理」というものは、それは何か他の原因によって存在するというものではなくて、初めからそれ自身によって存在しているというものであって、われわれは探求心によって詮索した極の極は、この「第一原理」に到達するほか仕方がないのであります。たとえば心臓はなぜ動くかというとそれは細胞がこういう具合な組織になって、そういう具合に血液が循環して呼吸運動がこういうふうになって血液の成分を新陳代謝させていると、そこのところをまだまだその原因をなお遡って、「なぜこの呼吸をするのだろう?」と、その「なぜ」のもう一つ奥に、もう「なぜ?」と言うことができないところの「最初のもの」――「第一原理」を肯定しなければならないようになる。それが神でありそれが生命であります。なぜ? なぜ? なぜ? ――かくしてそれ自身が初めから存在する不可思議なものに到達する――その不可思議なものが神なのであります。

 

この神というものを掴もうとする努力がすべての人間にあるのですから、人間の宗教心というものは非常に奥深いものだと言わなければならないのであります。では、もう一つ遡って、「なぜ、人間にそんな宗教心があるか」と申しますと、それはやはり人間は本来、神から発したものであるから、われわれはその本源のものを見出そうという憧れがあるからであります。たとえばわれわれは、孤児(みなしご)として親なしとしてどこかで養われているとしますと、「自分の親はどこかにいるかもしれない、会いたいな」という気持ちが起こるでありましょう。親に会いたい――この感じが本源を探求したい心である。「自分の身体はどこで生まれたか」というのも、自分の生命がどこから生まれたか、その本源を探りたいというのも、ともに親を知りたい、親に会いたい、親というものが何となく懐かしくて探らずにはいられないその同じ要求でありまして、いずれも「もとは一つ」の大真理より発するのであります。本来一つのものであるから、分かれ出でてもまた一つに逢い知ろうとする働きが起こるのであります。 (引用おわり)

 

以上は「本来一つのもの」と題する記事からの引用であり、「心臓はなぜ動くか」と云うのは、この文章の中の言葉を私が勝手に題名にしたものです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「一神」と「多神」、違いありや、なしや?

2024年05月22日 | 人生

先日、日本に在住している西洋人ユー・チューバーの動画を見ていたら、「日本人は神社にもお寺にも同じようにお詣りし、そしてクリスマスも祝ったりする、こういうところが私はとても気に入っている」とそのユー・チューバーは言っていて、「ああ、こんな受け取り方をする西洋人もいるんだ」と少し嬉しくなったことだった。

 

一般に日本人は多神教といわれ、一神教の人からは、節操がないように思えるらしいが、これは節操がないというよりも、こだわる必要がないと思っているだけの事だろうと、私は思う。

 

それに、「一神教」、「多神教」と区別すると、この二つはまるで正反対にも思えるが、しかし、「一神即八百万(やおよろず)の神」とか、「一仏即一切仏(いちぶつそくいっさいぶつ)」と考えれば、「一神教」も「多神教」もなんの違いもないと思う。

 

古事記の冒頭に名前が違う七つの神様が続けて出てくるが、その後、「これらは一つの神なり」と書かれている。神様の色々の御徳や、お働きによって、別の名前がついていても、元は同じ一つの神であるから、「多神教」といってもよく、「一神教」といってもよいわけだ。

 

それは、一人の人間が、子供から見れば「父」であり、妻から見れば「夫」であり、親から見れば「子」であり、会社では「係長」とか「課長」と呼ばれたりするように、役目によって呼称が違ってくるのと同じことなのだろうと思う。

 

一神教といわれるキリスト教にもいろいろな天使がいるそうだが、日本ではこの天使に相当するものも、やはり何々の神というふうに神という名前が付けられているから、さらにたくさんの神様があるように見えるが、やはり「一神即八百万(やおよろず)の神」であることになる。

 

この地球上にはいろいろの人種があるが、住む地域によって肌の色に違いはあっても、人体の構造は同じであるし、ユー・チューブを見ていると、文化や慣習、考え方に違いはあっても、やはり「同じ人間」ということは誰もが感じることだと思う。その人類の製造元とも言うべきものがあるとするなら、それは人種の違いに関係なく、製造元は同じであるに違いない。

 

だから、神社に行っても、お寺に行っても、拝んでいる対象はその製造元である「一つのもの」を敬い、お参りしているのだと思うし、同様にクリスマスを祝っても、おかしなことではなく、節操がないのでもない、むしろ歓迎されるべきことではないかと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動した「ある夫婦の物語」

2024年04月04日 | 人生

 先日テレビ番組で、山奥で暮らす60半ばのある夫婦について紹介する番組があり、それを見てとても感動させられたので少し紹介させてもらいます。

 

 そのご夫婦の夫の方は自給自足の農業を営む健康な常人だが、奥さんは耳も聞こえず、目も見えず、そして口で話すこともできない人でした。それでも夫婦の心は温かく通い合い、奥さんは明るくとても幸せそうでした。

 

 奥さんは盲で耳も聴こえないのに料理もし(そこまでには失敗の繰り返しがあった)、夫の弁当もつくり、その夫が野良仕事に出かけている間に掃除もする。そればかりか、パソコンを使って、毎日欠かさず、夫にメールを打つとのこと。自分が入力した文字が点字で確認できるようになっているらしい。そのメールを、以前、自分たち住んでいた家を今は作業小屋として使っていて、そこにもパソコンが置いてあり、夫が昼休みの時そこで弁当を食べ、そして、奥さんからのそのメールを読み、また返信するのが日課とのこと。それがお互いの楽しみなのだとか。

 

 日常の会話は、手を握り合っての手話ということだった(つないだ手の指を夫がちょこちょこと動かして伝えている)。そして奥さんはNHKの朝の連続ドラマを楽しみにしていて、夫がその手話で、その内容を伝えているとのこと。(その時の奥さんの幸せそうなこと)

 

 夫の方は若い頃、農業に従事したいと思い、武者小路実篤が主宰する「新しき村」で生活していた。しかし、ある時、自分の好きな農業をしているだけでは満足できなくなり、何か人助けになるようなことをしたいという思いが湧いてきて、盲人の案内役をするボランティアをするようになり、そこでその奥さんと知り合い、やがて結婚を申し込んだそうだ。お二人が結婚したのは、確か50歳頃だったと思う。

 

 このご夫婦の日々の生活ぶりを見せてもらいながら、「何という幸せなご夫婦だろう!こんな夫婦もいるんだなあ!」と本当に感動させられたことでした。
そして
足元にも及ばないが、自分もこの夫を見習い、もっともっと妻を愛し大事にしなければと思ったことでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神への道しるべ ②

2024年01月18日 | 人生

以下は谷口雅春著『神と偕に生きる真理 365章』 からの一節ですが、私が好きな所でもあるし、知っておいて損はないと思うので、いや、ぜひ知って頂きたく思い、紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 

神への聖なる憧れ

○肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何か一層高き神秘的なものが働いているという感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから生まれて来るのである。しかしその自覚に達する迄には、頭脳的な追及も知的な探求も必要である。神への追及、神への探求――それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、神への追及又は探求の奥には既に自己の本質が「神である」ことのおぼろげなる自覚があるのである。そのおぼろげなる自覚を探求の緒として手繰って行けば、其処についに内在の神を見出し、内在の神に到達する大通りを見出すことができるのである。
 未だ一度も神を経験しない人が神を探求し追究しようという衝動をかすかながらも感ずるはずはないのである。既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。

 

○こうして、人類の神への聖なる追及と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。或る人は神を「仏」の名に於いて仏教で見出す。ある人は神を「慈悲」の名において慈善的な行為や隣人への愛行に於いて見出す。或る人は、神を教会に於いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との接触点を見出そうとします。しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、縄張り的な狭い心でゆがめられ、本当の神を見失わしめられ、「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍に見舞われる」などとおどされて、神を求めたがゆえに、却って神に縛られて自由を失うような結果になりがちです。しかし本当の神は決してそのような神罰や仏罰で人間を威したりする方ではないのであります。 引用終わり

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神への道しるべ」

2023年12月04日 | 人生

以下は、谷口雅春著『生命の実相』第2巻の「神への道しるべ」と題する章からごく一部を抜粋したものですが、参考になればと思い、紹介させていただきます。

 

○われわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい触れてもそれを感ずることができません。もしわれわれが神を見ることができ、あるいは神を感ずることができますならば、その人のうちに神が宿っているからであります。 

 

○われわれが現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらないで、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはぴったり調和することのできない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想することができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち神であります。 

 

○このようにわれわれが現状に不満足であって、いっそう完全円満なものを予想する性質をもっている限りわれわれの内には神が宿っているのであります。このようにわれわれ人間にはみな神がやどっているのでありますが、その神性の開発されている程度はいろいろでありまして、そのために世界の宗教には、いろいろの宗派がわかれ、礼拝の本尊となるべき神仏にも、いろいろのあらわれ方があるのであります。それはちょうど、われわれが活け花をするときに、花を活ける人の心の内に開発されている「美」が活け花になって、そこに内在の美が外に客観的に現われる時に、いろいろのあらわれ方をして、いろいろの流派となるのと同じであります。

 

○人間の心の内部にある「美」が外界に投射し出され客観化して「活け花の美」となりますと同じように、人間の心の内部にある完全円満さ、すなわち神性が外界に投射せられて、それが客観化されたのが神であります。無神論者の中には神とは人間のつくったものであって、神が人間をつくったのではないという方がありますが、それも一理はあるのでありまして、人間に本来神性がなければ神をつくることも想像することもできないのであります。人間の内部精神に美がなければ活け花を美しく活けることもできないのと同じであります。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 わたしが神の実在を信ずるようになったのは、『生命の実相』全40巻を読んだのかきっかけでしたが、中でも、上の箇所は大きな影響を与えたと思う。そして、結局最後の40巻まで夢中になって読み続けました。

 今私は74歳で、後期高齢者に入る一歩手前だが、たとえ信仰といえるほどのものでないにしても、神の実在を信じられるようになったことは本当に幸運なことであったと、心より有難く思っています。

 いと気高きものの存在を認め、心に希望をもち、目標をもってこの人生を生きることができたら、それはとても幸せなことなのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結び目を解く

2023年09月19日 | 人生

下記はNHK Eテレの「ニュー試」という番組で放送された、ニューヨーク大学映画映画部の入試で出題された問と、それに対する松丸亮吾さんの解答です。

私には何を問うているのかもわからないような問ですが、ともかく松丸さんの答えが素晴らしいので紹介させてもらいます。

 

問:世界の中に見える結び目を解きなさい。(Untangle a knot you see in the world)

 

≪松丸亮吾さんの解答≫

私は、現代人の「タイムパフォーマンス」という考え方に疑問をいだいている。

友人とある映画の話をしていた時のことだ。その映画はシナリオの伏線回収が非常に良く出来ており、映像美や沈黙の間の作り方など演出もすばらしかった。特に主人公の最後のセリフが作品全体を貫く感動的なものになっており、私は涙が止まらなかった。今でも一番好きな映画なのだが、友人らは違った。

一人は倍速をかけて部屋の掃除をしながら見ていたと言い、一人は見たことすらないが映画の内容を要約してくれる人気チャンネルであらすじだけ見たというのだ。私は衝撃を受けた。タイムパフォーマンスという得を求めるあまり映画を見る時間を圧縮したことで、本来得られるはずだった感動の機会を失い、結果的に大きく損をしていたからだ。

映画に限った話ではない。何でも検索して答えを出そうとすることや、口コミを調べて体験した気になること。様々な場面で、本来得られるはずだった経験値、感動を奪うタイムパフォーマンスの悪がこの世界にはびこっている。

だからこそ私は「謎解き」を通して、タイムパフォーマンスの悪にあがらいたい。謎解きは答えを聞いたら楽しめず、答えに至るまでのひらめき・プロセスを楽しむ稀有なエンタメだ。途中を楽しむという姿勢が、タイムパフォーマンスの悪にあらがう一つのなると私は思う。

 

解答した後の松丸さんは次のように話していました。

「結び目って見えてるけど見えてないものみたいなもの、なんかこう誰かが解かなきゃいけないんだけど、みんなが見過ごしていることとか、問題提起なのかなと思って、「解きなさい」と書いてあったんで、それを理解した上で、どうすればよくなっていくか、手段も一つ提示しろって意味なのかな・・・」とそんなことを思いつつ書きました」とのこと。

 

年配の方はこの松丸さんのエッセイ(解答)に「大いに同感」という方が多いのではないでしょうか。

読んでいただき、ありがとうございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉しいニュース

2023年09月14日 | 人生

ある雑誌に、ニューヨークタイムズの次のような記事が紹介されていたので、紹介させてもらいます。

それによるとニューヨーク市の11の市立病院では入院患者の食事が年間で80万食になるそうだが、温暖化抑制のためその病院食を野菜を基本とし、肉食はオプションと変更したことで、食品関係から出る二酸化炭素排出量tが年間で36%減らすことができたとのこと。同市のアダムス市長の英断ですが、日本にもこんな市長が現われてくれればと思います。

 

また別の雑誌には、こんな記事もあったので紹介させてもらいます。

ハーバード大学の神経科学者であるパスカル・レオーネ博士は「イメージ・トレーニングで脳も身体も変わる」という実験結果を発表したそうです。それによると、被験者をピアノを演奏する組と、ピアノ演奏をイメージする組の二つに分けて実験した結果、運指(うんしゅ)を司る運動野の領域が両者とも同じくらい拡大するのを突き止めたとのこと。つまりイメトレによって脳の活動領域が拡大することが確かめられたそうです。

 

また同博士の別の実験で、30人の健康な若者を下記の4組に分け、それぞれ1日15分、毎週5日間、12週続けた実験したその結果、

  • 小指を曲げるイメトレ      小指の強度が35%増加
  • 肘(ひじ)曲げのイメトレ     肘の強度が13.5%増加
  • 何もしない対象群        変化なし
  • 小指の筋トレ          小指の強度が53%増加

 

以上の結果から、イメトレだけでもこのように実際に筋力が増加することが確かめられたのだそうです。

 

それにしても、いつまでも暑さが続きますね。どうぞ皆様も熱中症にならないよう気をつけてください。

 

○病人をたんに「病める肉体」だなどと考えてはならないのである。「病める物質」などというものは本来ないのであるから、肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。肉体がたんなる物質ではなく「人体」であるかぎりにおいて、それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、物心の両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。 (生長の家創始者 谷口雅春著『生命の実相』38巻より)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

或るお婆さんの変身

2023年08月09日 | 人生

或るお婆さんの話だが、その婆さんは嫁のすることが一々気に食わず、腹が立って仕方がなかったという
それで或るとき、宗教家にその事を話したというのであるが、以下は、その婆さんと宗教家の問答であり、谷口雅春著『親鸞の本心』という本からの引用です。

 

「一体誰が腹を立てさすのですか」と宗教家が問う。

「嫁が一々私に気に入らぬことばかりをするものですから」

「嫁が気に入らぬことをしたら腹が立ちますか」

「腹が立って致し方がありません」

「それでは其の立つと云う腹は誰の腹ですか」

「それは私の腹が立って仕方がありませぬ」

「あなたの腹はあなたが立てたり立てなかったりするのであって、嫁が立てるのではないでしょう」

「嫁が腹を立てさせるのです」

「そんなことはありますまい。たとい嫁がどのようなことをしようとも、あなたが腹を立てなければそれで好いのでしょう。そのあなたの腹を立てるものの正体は一体なんですか。それを一つ考えて御覧なさい。」

「・・・・・・・・・・・・・」

「あなたは腹が立つとき気持ちがよろしいですか」

「気持ちが悪くて悪くて、全く地獄の苦しみです」

「その地獄から逃げ出したいと思いませんか」

「逃げ出したいので先生に御相談申し上げているのです」

「そうでしょう。あなたの腹の中には、腹を立てて自分で自分を地獄へ突き落している『自分』と、その地獄から逃れたいと思っている『自分』と、二種類の自分がいるようですね」

「はい・・・・・」

「その二つの自分のうち、どちらが『本当の自分』か静かに座って考えて御覧なさい。これから毎朝正座して30分間『本当の自分は、腹の立てる自分ですか、腹を立ててるのを嫌う自分ですか』と自問自答して答えて御覧なさい」

 

 こう云われて、その婆さんは毎朝々々、教えられたようにして正座して、本当の自分を見出すことにつとめたそうです。

 

そして今まで仏様は十万億土の彼方にいると思っていたが、自分の本性が仏様であるとわかり、それとともに、他の人も仏様じゃと分かり腹が立とうにもたちようがなくなってしまった。そして嫁いじめをやめ、嫁御大事と互いに拝み、拝まれ、本当に極楽世界の生活を送ったということでした。

以上、婆さんと宗教家との問答がとても面白いので、紹介させてもらいました。

 

○何故人間が理想郷を求めずにはいられないのか、人間が何故「欣求浄土(ごんぐじょうど)」の心が起こるかと云えば、斯くの如き浄土が既にわれわれの「生命の既成体験」の中にあるからなのである。吾々の生命は、その既にある体験の中で、既に斯くの如き浄土に住んでいるからなのである。「欣求浄土」は、既に吾らのいのちの体験に於ける、望郷の願いであり、魂のホームシックに他ならないのである。 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サムシング・グレートを観る

2023年08月08日 | 人生

禅宗の『無門関』という本にはいろいろの公案(問題・問いかけ)が提起されているが、その中にこんな問いがある。

 

昔、中国の奚仲(けいちゅう)という人がたくさんの車をつくった。ところが奚仲(けいちゅう)は何を明らかにしたかったのか、せっかく作った車をまたバラバラにしてしまった。いったい奚仲は何を明らかにしたかったのか。という問いである。

 

これは、「車とは何か?」という問題のようですが、答えは車は部分品ではなく、また部分品を集めた全体でもなく、本当の車は、それを作った奚仲(けいちゅう)の心の中にある。なぜなら、本当の車は、荷物を乗せ、人を乗せ、そして「輪っば」を回転させて前に進むという、アイディアであり、理念であり、設計図である。だから、車はそれを製作した奚仲(けいちゅう)の心の中にある。そのことを奚仲は明らかにしようとした、というのがこの問いへの答えであるようです。

 

この「車とは何か?」という問いかけは、「会社とは何か?」でもあるし、「人間とは何か?」という問いかけでもあるが、腕をちょん切り、足をちょん切り、首をちょん切り、それぞれにお前が人間かと問いかけても、返事をしない。それなら全体に向かって「お前が人間か?」と問いかければ、「そうだ」と返事をしてくれるかもしれないが、いくら返事をしてもそれが正解とはいえない。なぜなら身体を人間と思っているかぎり、身体は峠を越えれば、衰え、しなびていくばかりであり、そのような存在には夢も希望もないからである。

 

しかし、人は身体のみ見ているのではなく、身体の奥にある目に見えないものをも見ている。だからこそ夫婦は年老いても、睦まじく暮らすことも出来るし、さらには自分自身が生長すれば一層明らかに背後にあるものを観て尊敬の念さえもつことも出来る。

 

形の車は朽ち果てても、本当の車はそれを考案した奚仲の心の中にあり、いつまでも慈しまれているのと同じように、われわれ人間も、その考案者である神(仏)の中にあって、いつまでも永遠に愛され慈しまれている。それは母親の心の中に、いつも、いつまでも愛しきわが子がいるようなものかと思う。

 

このように吾々は肉体的身体だけを見るのではなく、それ以上に、その背後にあるサムシング・グレートを観なければならないのではないか、そんなことを感じさせられているこの頃です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする