気の向くままに

山、花、人生を讃える

懐かしく思い出されること

2019年07月24日 | 人生

長く続いた梅雨空から解放されて、ようやく青空がのぞいた。今日の名古屋の予想最高気温は34度とのこと。私の住まいは水田の多い田舎だから、それよりは1~2度は低いはずだが、ともかく本格的な暑さを迎えることになるようだ。

 

夏の暑さは今の年齢の私には厳しいが、しかし、一方では初恋のような甘さ酸っぱさもある。
夏になると何故か「若い頃が懐かしい」という気分になるのである。

 

よく「夏の思い出」というが、「春の思い出」も「秋の思い出」も「冬の思い出」も、あまり聞かないから、これは多分、私だけのことではなく、日本人に共通した感慨かもしれない。

 

わたしの高校生時代にはグループサウンズが大人気だったが、私は一向に興味がなかったにもかかわらず、いや、それよりも若い女子たちにキャーキャー騒がれて喜んでいる軟弱な男たちという反感さえもあったのに、今、共通の時代を生きた同世代という仲間意識のようなものがあるし、当時のグループサウンズの曲を聞くと懐かしいのである。

 

グループサウンズばかりではなく、特に昭和40年代の曲は、その頃好きでなかった曲でも、懐かしく感じられるし、社会人になってからは歌謡曲にまったく興味がなかったのに、今は歌番組を録画して楽しんだりもしている。

 

私は学年が進むごとに落ちこぼれていった劣等生だったから、授業をさぼるのは割りと平気で、よく午後の授業をさぼってヨットで遊んだ。狭い岩礁の間を滑るように走るのはほんとうにスリルがあって、この時だけは「生きている」という実感があった。

 

しかし、また停学も3回くらい、最後は無期停学で、立ち直りたくても立ち直れずにもがいていた、謂わば灰色の時代でもあった。父親がそのたびにはるばる三重県の学校まで呼び出されたが、その頃の私は親の心配などは、気にもしていなかったように思う。親の心配よりも、自分が心配だったのである。

 

そして、卒業したすぐ、21歳の誕生日がまじかに迫った時、「一体こんな自分はこれからどうなるのだろう」と思い、一つ手相の本で自分の将来を占ってみようと云う訳で、名古屋の大きな本屋さんに出かけた。その時、『生命の実相』40巻がずらりと並んでいるのが目に入り、試しに読んでみる気になって2冊を買った。それ以後読んでは買いに行き、読んでは買いに行きを繰り返し、3月に読み始めて夏が終わるころには全巻を読んでしまった。感激のあまり本部に手紙を出したことも覚えている。

 

この本には「人間は神の子である」ということが、いろんな宗教教祖の教えや、哲学、心理学、医学、最新の物理学など、あらゆる方面から理路整然と説かれていた。それだけでなく、あらゆる人生の諸問題に就いても格調高く、しかも易しく説かれているので、読みながら舌を巻くばかりだった。複雑な概念を誰にもわかりやすく説く著者の頭の良さ、文章力のすばらしさに感動し、同時に、これで「自分は救われたぞ!」という感激がふつふつ湧き上がって来た。まさに暗闇に光を見つけた瞬間だった。そして、神が本当にいるということが、何か不思議であると同時に、それがとてもうれしかった。それは、この世の中は決していい加減の、偶然任せのものではないということであり、生きる価値を見出だした瞬間でもあった。 

 

夏になると、若い頃が懐かしく思い出されるのは、そんな影響もあるのかと思いつつ、今年もまた当時のことが懐かしく思い出されてくるのである。

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或る重要な「質問」&「回答」

2019年07月23日 | 人生

少し前の生長の家の月刊誌を見ていたら、質問・相談コーナーにこんな質問が出ていました。

 

≪質問≫これまでいろんな宗教の集まりに顔を出してきました。どの宗教も決まって、「誰一人として悪い人はいないし、皆いい人だ」と言うのですが、それならなぜ、たくさんの殺人事件などが起きるのか、その問いに答えていないように思います。自分の宗派を伸ばすことばかりに躍起になっているのは、本末転倒のような気がしてなりません。(60歳 男性)

 

と、このような質問です。そして、これに対して次のように解答されていました。

 

≪回答≫

生長の家でも、「人間の本質は“神の子”であり、皆いい人であって、悪い人はいない」と教えています。
なのに、なぜ殺人事件などが起きるのでしょうか?

 

それは、「自分が神の子である」と気づいていない人が多いからです。
気づいていないから欲や嫉妬や恨みにとらわれ、人を殺したりなど悪を犯すことがあるのです。

 

では、皆いい人がなぜ悪を犯すことができるのかというと、人間には悪や善を為す自由があるからです。
いい事でも(善)、誰かに強制されてしかできないなら、その行為はほんとうの善とは言えなくなります。
善か悪かを自由に選択できる中で善をなすとき、初めてその人は善をなしたということができるのです。

 

人々に善と悪から善を選択してもらうには、「人間は神の子で神性、仏性を宿している」ということに気づいていただくことが必要になります。あなたは、「自分の宗派を伸ばすことばかりに躍起になっている」と宗教を評しますが、宗教の布教活動の本来の目的は、「人間の本質は皆いい人で、神性、仏性を宿している」と気づいてもらうことにあるのです。

 

生長の家では、殺人などが起きている世界を「現象」と呼び、殺人のない、完全円満ですべてが調和している世界を「実相」と言い、この実相が本当にある世界であって、現象は仮にあらわれている世界だと説きます。ですから、仮存在である現象世界の悪を攻撃しても悪はなくなりません。

 

そしてこの世には、心で認めたものが現れるという法則(唯心所現)がありますから、善を現すには、善いこと、物事の明るい面を認め、表現することで、善が広がり悪が消えていくのです。生長の家は、そうした生き方を「日時計主義」と言い、その実践をお勧めしているところです。

 

と、このように書かれていました。

 

つい最近、ある一人の人間によって、30人以上もの人たちが犠牲となる痛ましい事件が起きました。
そして、神仏がいるなら、どうしてこのような理不尽なことが起きるのか?というのは常に投げかけられる問題です。
上の回答を読まれた人は、さらに「ならば神がいるとして、なぜ神は、このような犠牲になるような人たちを助けようとしないのか」という疑問がわいてくるかもしれません。しかし、質問への回答はここまでなので、中途半端のようですが、ここで終わらせてもらいます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

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原発関連の報道について思ったこと

2019年07月22日 | 社会

2011年3月に東京電力の福島第一原発が津波で破壊され、放射性物質が周辺地域に拡散され、多くの人が終の棲家を追われることになった。そしてこの大事故の後、原発がテロに見舞われ、同様の大事故が発生した場合のことを考え、政府、有識者の間で議論されてきた。

 

また、国際的にも、テロによる大型航空機が衝突した場合のことを考え、原子炉を遠隔操作で冷却できるようなテロ対策の必要性が国際的にも強調されてきた。

 

そして、日本では「特定重大事故対処施設」というテロ対策施設の設置が電力会社に義務付けられた。これの設置期限は2015年の工事認可後5年以内と義務づけられている。つまり2020年。

 

このテロ対策施設は、原子炉建屋から100メートル以上離れた場所に新設し、制御室や発電機、原子炉に冷却水を送るポンプなどを備えることが義務付けられているそうで、1基で1000億円程度の建設費が必要で、電力会社にはかなりの負担であるらしい。が、原子力規制委員会は今年の4月、テロ対策施設の建設が設置期限に間に合わない場合は、原発の運転停止を求める方針を決めていた。

 

今、日本で稼働している原発は9基だそうだが、これら9基の原発すべてが、テロ対策施設の期限内設置がここにきて難しいことが明らかになってきた。そして各電力会社はそろって規制委員会に期限の延長を求めてきたとのこと。それに対して規制委員会は「工事が大掛かりになることは設計段階からわかっており、延長の理由にならない」と突っぱねたらしい。

 

こんな報道をある月刊誌で知ったのだが、日本国民は、津波によって原発が破壊された時の怖さを、目の当たりに見てきたのに、これら電力会社の姿勢は、少し甘すぎやしないかと思った。まだ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とでも思っているようである。万が一、事故が起きた時の原発の怖さがわかっていないというか、それとも、万が一にもそんな事故は起きないし、テロもないと思っているのだろうか。

 

原発の怖さは、いったん事故が起きれば人力ではコントロールできなくなる、そういう危険なものだということをよくよく知らなければならないと思う。人類の科学は、まだまだ原子力を扱えるほど発達していないし、人間自身も、それを扱えるほど進化はしていないのである。

 

溜まっていく一方の放射性廃棄物(使用済み核燃料) の処分さえ、どうしていいのかわからないし、わからないことを知りながら、あとに生まれてくる人たちのことなど俺は知らないとばかりに、平気で原発を使い続けているのが今の人類である。とはいっても、私も原発から生まれるエネルギーのお世話になっているのであるから、そう悪くは言いたくないのだが。ただ、こんな大きな事故を再度経験するようなことがあったら、原因が何であるにしても、それは「大いなる恥」とあざ笑われても仕方がないと思う。

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熊と遭遇した或る信仰者の話

2019年07月08日 | 信仰

生長の家の本部講師○○先生は、クマと出合った時の体験を、次のように書いておられる。

  

私は群馬県教区に赴任中、八ッ場ダムの建設計画を知り、出講の帰途、一部がダムに沈む吾妻渓谷を見ておきたいと立ち寄りました。遊歩道に入ると「熊出没注意」の看板が・・・。鈴もない、闘うすべもない、逃げる自信もない。熊が出たらどうしよう。秋の日の午後、不安がよぎりましたが、まだ明るく、山中に進みました。山中を抜け、渓谷も見えてきて安堵しました。

 

その時、
「人のこの世の寿命はその人のこの世における役目のつづくまでは続くのである。いつまでもこの世に役目をもっている人、いつまでもこの世の仕事をもっている人、かくのごとき人々がこの世から去るということは、道理上ありうべからざることである」  (『生命の実相』24巻)

の文章を思い出し、かつて詠んだ私の辞世の句――

        使命あらば吾を生かせよ天津神 死ぬも生きるもすべて天国

を思い出し、「神に全宅すればよいのだ」と気付きました。クマへの敵視と恐怖は間違っていた。クマと私は神において一体。クマに出会ったら微笑めばよいのだ。

 

気持ちも落ち着き、歩いて行くと、10メートルぐらい先の茂みで、ガサッと音がして真っ黒いものが動いています。しばらくすると、小グマがかわいい顔を出しました。「なーんだ、小グマちゃん!」と微笑んでいると、別の子グマが顔を出し、私はまた微笑みました。が、少し経つと、2頭の背後からニョッと大きな親グマが現れ、私と目が合いました。えっ、まさか?クマが目前にいるのです。どうしよう、目を逸らしてはいけない!私は静かに正座し、じっと見ている親グマにも微笑んで合掌し、「クマさん、驚かせてごめんなさい。お食事中を失礼しました。ここでクマさん一家の幸せを祈らせていただきます」と挨拶して姿勢を正し、路傍のお地蔵さんのように固まって神想観(瞑想・祈り)を始めました。招神歌を唱え、宇宙の大生命が自分の生命となって生きている永遠不滅の自分を自覚し、善なる神の創造された宇宙の運行に身を任せ、御心のままに為さしめ給え…と観じて、そっと薄目を開けると、まだクマ親子は姿勢を崩さずにこちらを見ています。

 

あっ駄目だ、自分はクマが早くどこかに去ることを願う心があった。再度神想観をやり直し、神と偕に、クマ親子の幸せを時間の経つのを忘れて祈りました。20分ぐらいたち、われに返ると、前方にクマ親子は仲良くゆっくりと去っていくところでした。私は、その後ろ姿が見えなくなるまで祈り見送って、静かにそこを離れ、胸はドキドキ、足はガタガタでしたが、何か嬉しい気分で駐車場に向かい、渓谷を後にしました。

 

 これは一例で、状況によりいろいろな対処法があるでしょう。しかし皆さんには、ぜひ日ごろから幸せを招く神想観をお勧めし、皆さんの前途を祝して終わります。

 

 

わたしは幸い熊に出会ったことはありませんが、しかし、特に家内と連れ立って岐阜県の山に入るときは、「クマと出合っても目をそらせず、絶対逃げない。必ず家内は守る」と強く自分に言い聞かせていました。いつもそういう覚悟でいると、回を重ねるにつれ、何となく逃げずにいられる自信がついてきました。それはクマへの恐怖心がなくなるからではなく、「逃げたら、もっと怖いことになる」ということが、だんだんと深く潜在意識にまで入ってくるからだろうと自分では思っています。もちろん、実際にはクマと出合ってみなければわからないことですが。ただ、逃げずにいることは想像するほど難しいことではない気がするし、実際多くの人がそのような体験を語っています。

 

しかし、この先生のように熊を数メートル先の至近距離に居るのを目にしながら、目を瞑るなどという事は、そして「座る」などという、こんな話は聞いたことがありません。よほどの「信」がなくては、出来ることではないと思います。それで、衝撃ともに「素晴らしい!」と感動したのでした。

 

そして、こんな人もいるという事を、ぜひ知ってもらいたいと思い、紹介させてもらいました。

最後まで読んでいただき ありがとうございます。

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困難なるものの内にこそ蘊蓄が多い

2019年07月06日 | 人生

○人類の文明発達の歴史は、それまで困難、不可能とされてきたことを、人間の智慧によって可能にした歴史でもあります。

 

○アメリカの世界的発明家であるトーマス・エジソンは電灯を灯すまで1万回の失敗を重ねました。

しかし、そのことについて他の人から、

「1万回も失敗を繰り返したようですね」と尋ねられたエジソンは、

「私は失敗したことなどない。1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」と言ったそうです。

この言葉は、発明だけに限らず、わたし達の人生にも当てはまるものです。

 

生長の家の本部講師をつとめておられるA先生は、このように話を切り出され、そして自分の体験談を次のように話された。

 

○私は35歳の時、友人の連帯保証人になって1千万以上の借金を背負わされたことがありました。
私は、「友人を恨むことなく、この借金を払いおおせたら俺はすごい人になれる。神の子無限力を発揮する機会を与えてもらったのだ」と、考え方を変えたのです。そして、「きっとよいように導かれる」と祈りながら、コツコツと借金を返し続けました。すると、色々な人から思いがけない援助の手を差し伸べられ、幸運にも恵まれて、12年後に完済することが出来ました。

 

A先生は、ごく簡単にこのように話をされ、最後は次のように締めくくられました。

 

○私は自分の体験を通して、『真理の吟唱』(谷口雅春著)の中にある「人生の苦難を克服する祈り」の一節、
「困難なるものの内にこそ蘊蓄が多いのである」という言葉を実感しています。と

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感動した、あるチラシの文章

2019年07月04日 | 人生

以下は、私の親しい友達の、その息子(20代のはじめ)が書いたという、夏季中高生練成会のチラシに掲載されている手記とその案内です。とても素晴らしく、感動させられたので、ここにも紹介させてもらいます。

 

 

皆さん、ありがとうございます。青年会の○○です。

僕は中学生の時にイジメを受けたんです。自分で自分を傷つけて「この世から居なくなってしまおう」とまで思った。仲の良い友達はいたけど、その辛い気持ちを話せなかった。心の内を見せられなかったんです。

 

でも、僕の場合はラッキーで、母が生長の家を勉強していたので、僕の様子に気がついてくれて相談することができました。おかげで、今でも信じられないぐらいですが、いじめっ子の彼と、大人になった今でも遊ぶほど仲良くなりました。そんな体験から、ただ仲が良いのが、いいんじゃない。本当の友達が必要だと思うようになりました。

 

今はそういう人が周りに居てくれます。本当に自分が辛い時に、相談できる相手、嬉しかった時に一緒に喜んでくれる人、ちゃんと心が通い合っている感じがして、弱さも強さも認め合える人が誰にでも必要なはずなんです。

 

そこで、今回の中学生・高校生練成会は、「深い愛」をテーマにします。両親、友達、恋人、先生、いじめっ子、どんな人間関係も根っこは「愛」で繋がっています。でも根っこなので、普通は見えません。見えないから忘れてしまって、栄養を送らなくなってしまいます。するとだんだん力を失っていくんです。でもまた水をあげればどんどん育っていく。

 

「愛の根っこ」の見つけ方、育て方を、2泊3日で一緒に学んでみたいんです。多くの人に参加して欲しいので、途中からの参加や帰るのはOKにしています。もし私に練成会は必要ないと思ったらかなりチャンスです。そんな人ほど、愛の根っこに気づくと変化が大きい。少し知るだけでも人生に根強い影響を与えられます。まだ4月ですが、もう準備を始めています。会えたら嬉しいです! 一緒に楽しみましょう!

 

 

というものですが、素晴らしいですね。

そう言えば、このお母さん、あまり自分を飾らない、とても明るい人です。そして、電話をしてもなかなかつながらないほど忙しくしている人ですが、子供がいじめられていることによく気づいたなと、それだけでも感心させられました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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映画『今日も嫌がらせ弁当』を見て

2019年07月02日 | 映画

昨日は色々買い物があったので、ついでに映画『今日も嫌がらせ弁当』を見た。

 

反抗期を迎えた娘とシングルマザーという親子の物語。普通なら男が見る映画ではない。が、けっこうオモシロカッタ。娘の反抗に母親はめげるどころか、逆に娘が反抗をやめるまで、母親の意地にかけて意地悪弁当を作り続けるという、そんな明るいキャラクターの母親像が新鮮で面白かった。そして最後には不自然ではない、胸がきゅんとなる感動が待っていた。

 

「人間て、いいものだ!」と感じさせるのに、大仕掛けなドラマは必要なく、日常のありふれたところに感動はある、ということを教えてくれる映画だ。

 

そして、男にとっては、「女とはいかなるものか?」という事を教えてくれる映画でもある。
私は家内を見るとき、ほとんどは「妻」という感覚で観ているように思うが、こういう映画を見ると、女性の心は、特に子供ができてからは「夫の妻」よりも「子の親」としての方がだんぜん大きなウエートを占めていることを感じさせられた。大げさかもしれないが、一つの発見である。

 

こんな映画を見る男性は極めて少ないだろうが、男のわたしでも楽しめたし、「また、見たい」と思わせる映画でもあったったことを付け加えておきたい。

 

所で、母親の意地悪弁当から思い出したことがあります。

 

以前、わたしは食事した後の食器を、多分家内にうるさく言われ、根負けしたからだと思うが、「流し」に運ぶまでは運んでいた。ところが、いつごろだったか、意地悪家内はそれだけでは満足せず、水に浸しておいてくれないと汚れが落ちにくくなるから、水に浸けておいて欲しいという。

 

それで、私が「そんなことまで俺にやらせるな! と、言えば

家内は「やらせるではなく、やって欲しいとお願いしてるんです」と口答えする。

 

まあ、こんな感じで何度か繰り返された。そのうちに、こちらが根負けして、家内への面当ての気持ちもあり、「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」で、「めんどうだ、ついでに洗ってしまえ」というわけで、自分の使った食器は自分で洗っている。もう15年にはなると思う。初めは家内も「ありがとう」といっていたが、今は言わなくなり、私も当たり前の如くそれをしている。(笑)

 

禅宗の『無門関』という本の中に、新しく入門した僧が、師匠に、

「何をすればいいかどうぞ教えてください」と指導を仰ぐと、

師匠は

「ご飯を食べたか?」と聞く。

「はい、いただきました」と答える。すると師匠は

「食べたら、茶碗を洗え」と教えたとのこと。

 

当たり前のことを、当たり前にするのが「悟り」であり、「仏道」である。という教えだそうだが、そうなると意地悪家内は、私のお師匠ということになる。
フーテンの寅さんなら、きっと「男のつれえ所だ」というに違いない。

 

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