常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「涼宮ハルヒの消失」の感想

2010年02月07日 | 日常

「涼宮ハルヒの消失」、初日から見てきました。ネタバレしても仕方ないので、簡単に感想だけ記しておきます。

相変わらず、キレイにできておりました。芸術品というか、つくづく細かいところまで、よく作りこまれていると感じました。個人的には、窓ガラスや鏡への映りこみ方とか、人物の微妙な動きとか、やたらとリアルな背景画とか、そういうところが好きだったりします。

話の中身も、「涼宮ハルヒ」らしい世界観で、とても良かったです(「多世界解釈の不思議」参照)。具体的な内容に関する記述は避けますが、この作品、タイトルから分かるとおり、ハルヒが消失してしまうわけで、そのストーリーを私なりに解釈すると、「キョンへの天罰」だったような気がします。

世界の中心にいるハルヒは、いわば宇宙を統べる神に等しい存在です。その神様に対して、キョンは自らの分をわきまえることなく、常日頃から文句タラタラな思考をしすぎです。これは、誠にもってあるまじきことでもあります。要は、神様に対して文句を垂れてはいけないのです。もし、どうしても神様に対して文句を垂れるなら、自分自身がハルヒに匹敵するくらいの神様になることしょう(「「自分教」の薦め」参照)。

いやしかし、私が考える「自分教」的な意味で神様になってしまうと、(ハルヒを含む)他人様をきちんと尊重できるようになるため、実は、「ハルヒに文句を垂れる」というような発想自体がなくなるのかもしれません。このあたりの論理構造は、パラドックスになっているので、少々、難解かもしれませんが、今回の作品、そんなことを考えさせられました。

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トミカヒーローの良い所

2010年02月06日 | ヒーロー&アニメ

トミカヒーロー レスキューファイアー」は、結構、頑張っていると思います。

日本の特撮ヒーローというと、石ノ森章太郎さんのスーパー戦隊モノ(○○レンジャー系)や仮面ライダーシリーズ等の知名度が、圧倒的に高いと思うのですが、個人的には、前作の「トミカヒーロー レスキューフォース」を含めたトミカヒーローシリーズを高く評価したいと思います。その理由を端的に述べると、制作に携わっている方々の熱意や工夫を感じるからといったことになるかもしれません。

もちろん、他の番組制作に携わっている方々も、それなりの熱意や工夫をこらしているのでしょうから、それを否定するつもりはありません。私なりに、こうした番組については、商業偏向主義に対する危機感があり、それに対する警鐘を鳴らしているつもりではあります(「仮面ライダーと商業主義」、「ヒーローたちに魂を」等参照)が、それが直ちに事の善悪を決定するものではないと考えます。それに、トミカヒーローシリーズに関して言えば、そもそものタイトルから「トミカ」という玩具のブランドを冠しているわけで、トミカヒーローシリーズこそ商業主義に偏っていないかという指摘もあり得るのではないかと思います。

しかし、私が見るポイントは、そうした商業的な要素と、番組自体のストーリー性やクオリティをどのようにバランスさせるかという点です。トミカヒーローシリーズは、その点、非常に頑張っているように思うのです。

例えば、まさにその「トミカヒーロー」というタイトルに関して言えば、「トミカ」というブランドを前面に出すことで、既にある程度の広告効果(商業効果)を生み出すことに成功し、逆に番組の中身については、それにあまり左右されない展開を用意できているのではないかと考えられます。実際、トミカヒーローシリーズのストーリーは、他の同種番組に比べて、玩具の販売戦略に左右されるような展開が、極めて少ないように感じます。

制作者の方々からすると、そうした自由があるからこそ、熱意を持って創作活動にあたることができ、そこにいろいろな工夫を盛り込むことで、結果として、ストーリーの中に繰り広げられるユーモアやメリハリが実現するのだろうと思うのです。この間、名古屋シティーが舞台になったときに、河村たかし名古屋市長がセリフ付きで出演していたのを見たときには、「そこまでやるんだ」とビックリさせられました。テレビ愛知の遊び心、恐るべしです。

そしてもちろん、トミカヒーローシリーズのストーリーが商業主義と無縁なわけではありません。先日は、レスキューファイアーのメンバーが、同番組のスポンサーである「Round1」に遊びに行くという設定がありました。ただ、その商業主義的要素の持ち込み方が、なかなかユニークではないかと思うのです。今日の特撮ヒーロー番組では、スポンサーの製品である玩具と番組の中身(ヒーローが使う武器やロボット等)を結びつけるというのが、主流なのではないかと考えます。しかし、「Round1」のケースでは、そうした玩具の類ではなく、単純にレスキューファイアーのメンバーが、ある日、その遊戯施設で遊びに行って、そこにどんなものがあるのかを知らしめているわけです。当然のことながら、レスキューファイアーのメンバーが、一回、そこに遊びに行ったからといって、ストーリー全体が大きく歪むような不自然さは生じません。私としては、「こんな広告もあるんだ」と感心させられました。そして、こうした工夫をすること自体が、なかなかユニークで面白いのではないかと思うのです(個人的には、昔の仮面ライダーやウルトラマンで伊豆シャボテン公園が出てきたときに、同園がスポンサーであったかどうかは別にして、もしかしたらそういう宣伝効果があったかもしれない等と思ったりします)。

そんな頑張っているレスキューファイアー、最近の数話では、前作のレスキューフォースの主人公であるR1が出演してくれたりもしています。こうした同じシリーズの兄貴分キャラクターを、きっちり使ってくれるあたりにも、昔の古きよき特撮ヒーローを想起させてくれます。最近のキャラクターは、どうも使い捨ての傾向が強く、しかもそのライフサイクルが短すぎるような気がしてなりません。

今日放送分のレスキューファイアーでは、現シリーズの主人公であるファイアー1と旧シリーズ主人公のR1が力を合わせて戦ってくれていました。これには、昔で言うところの仮面ライダー1号・2号の共闘、あるいはウルトラマン兄弟のタッグ戦のような有り難味を感じるわけです。

私個人としては、平成仮面ライダーが、「仮面ライダーディケイド」によって、大崩壊を起こしてしまったと感じているおり(「さらばディケイド!」参照)、また今後も、仮面ライダーカブトと仮面ライダー電王のオリジナルキャストでの共闘等、期待できるはずもないことを考えると、トミカヒーローの制作に携わっている方々のこうした「オリジナルキャラクターを大切にする精神」は、とても嬉しく思いますし、また今後も是非大切にしていただきたいと思うのです。

そんなこんなで、私としては引き続き、トミカヒーローたちの大いなる活躍を切に願うのでした。

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丁寧に議論するための分量

2010年02月05日 | 社会

Twitterの中で、他のユーザーの方とちょっとしたやり取りをさせていただきました。ただ、Twitterというのは140文字の字数制限があり、なかなか思うようなコミュニケーションができないような気がします。また、議論がぶつ切りになってしまうため、オープンなインターネットの良さを活用しきれない問題もあるように感じました。

ということで、ひとまず、やり取り(Twitter上の引用等、一部削除)を書き出してみました。

==============================
■竹内
歴史共同研究の内容について、中国政府は関与していないと言っているらしいですが、その実、中国当局が大きく関わっていたという報道もあります。これが本当だとしたら、やっぱり大問題です。中国政府は大嘘つきで、案の定、南京大虐殺なんて、単なるでっち上げに過ぎないことの証左かもしれません。

■先方様
嘘をついていない政府が実在するなら、その国名を挙げて下さい。

■竹内
当然のことながら、それは当事者しか知らないことで、私が言える範疇にはありません。念のため申し上げておきますが、私は中国政府が嘘をついているとは断じていません。嘘をつくならお上手に、とは思いますが。

■先方様
思いっきり断じていますが・・・→【中国政府は大嘘つきで】 繰り返し質問しますが、嘘をついたことがない政府が存在するなら、その国名を挙げて下さい。

■先方様
質問を変えてみましょうかね、南京大虐殺が無かったと主張している学者が実在するなら、その名前を挙げて下さいな。

■竹内
ごめんなさい。こうした字数制限付きの短文での議論は控えさせていただきます。もし本当に議論をお望みなら、こちらにコメント下さい。http://blog.goo.ne.jp/sukune888。それと私の最初の投稿、今一度、熟読されることをお勧め致します。

■先方様
今君のような人たちに対して質問を書き込んだから、長文書ける暇ができたら君も書き込んでくれ、匿名でもかまわないよ。http://society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1259486366/

■竹内
お気遣い、ありがとうございます。ただ、ちょっと2ちゃんねる(匿名の掲示板)というのは苦手で・・・。また何かの機会がありましたら、議論させていただきたいと思います。

■先方様
もう二度と南京大虐殺は無かったと言う意味のことは言うなよ、ドイツだったらブタ箱行きだぞ。

■竹内
さて、ここは日本ですし、今後とも私は思った通りのことを申し上げていくつもりですので、よろしくお願いします。
==============================

上記のやり取りから、私が思うことは以下の通りです。

1.本問題における「嘘」の危うさと重大性

南京事件については、肯定説から否定説の幅の中で、さまざまな意見があるものと認識しています。その中には、犠牲者の数はもとより、そもそもそうした事実すら全くなかったという論まで唱える人がいるというのが現状です。否定論者からすれば、「中国が嘘をついているのではないか」と勘繰るわけで、こうした懐疑的な見方を一掃するためにも、特に本問題をめぐっては、中国政府自身が真実のみを述べているということを堂々と示す必要があるものと思われます。

そして、そうした問題の性格上、本問題について、「二枚舌」と取られるような報道がなされることは、非常に重大な意味を持つのではないかと考える次第であり、そうした報道をされないためにも、当事者は極めて慎重に行動、及び発言すべきではないかと考えています。

2.私の投稿文の論理構成

私の投稿による最初の指摘は、大きく二つのポイントによって論理構成がされています。即ち、「これが本当だとしたら」という「仮定」と、「でっち上げに過ぎないことの証左かもしれません」という「可能性」の二つです。

これが意味するところは、まず現状において、その仮定が定まっていない以上、私自身、本件について、「中国は嘘をついているのではないか?」という疑念を排除できないながらも、結論のつけようがないということです。さらに、その仮定内容が確定したとしても、それによってもたらされる結論の可能性を述べるに留まっており、そこからさらにその可能性の中身を特定しなければ、最終的な結論に至らない論理構成となっています。

ところが先方様は、「思いっきり断じていますが・・・」とおっしゃられており、そのあたりの論理構成を全くご理解されていらっしゃらないように見受けられます。ただ、先方様は外国の方である可能性もあるため、そういう意味で、もしかしたら日本語の言語的な論理構成をご理解いただけていないかもしれない点、勘案しなければならないだろうと考えています(もし本当に外国の方であるとするならば、ある意味で、大変、日本語が堪能ですごい方だとも思いますが・・・)。

3.質問の意図が分からない

先方様からは、「嘘をついていない政府が実在するなら、その国名を挙げて下さい」、「南京大虐殺が無かったと主張している学者が実在するなら、その名前を挙げて下さい」といった質問が寄せられました。私としては、まずもって質問の意図が分からないため、何ともお答えのしようがない気がしております。これは、そもそもTwitterの字数制限によるもので、先方様もきちんと質問の内容を説明できていないだけなのかもしれません。

ただ一応、これだけの内容から、同質問に答えるとするならば(既に答えた内容を除いて)、まず前者については、「もし質問者の方が、嘘をついていない政府など実在しないという回答を期待されているとして、それが本問題に与える影響が不明です。仮に、他の政府もやっているだろうから、中国政府が嘘をついたとしても見逃してやれというのであれば、それは大いに筋が違うと思います。あるいはみんな嘘をついているのだから、何を根拠に信じるのかという類の話かもしれません。そうだとしても、そういう状況の中で、何を是とするかは個々人の判断でしょう」という程度のコメントを寄せるくらいかと思います。

また、後者に関しては、「本件については、実に多くの方々が、研究や考察をされていると理解しており、学術的見地も含めて、さまざまな議論があるものと認識しております。ただし、この問題に絡んでの「学術的」という言葉は、政治的な思惑も絡み、非常に恣意的であるとも考えられるため、私自身、あまり重要性を認めておらず、個別の論者の名前を挙げる必要性も感じません。また、もし仮に「南京で大虐殺があった」という学術的なコンセンサスが得られているということであれば、これに異を唱える人間は、世の中から「無学」扱いされる等の社会的不利益や冷遇を受けるものと思われます。しかし、少なくとも今の社会で、私はそれを感じませんし、それを感じない以上、仮に「学術的コンセンサス」があるとしても、むしろその「学術的コンセンサス」の方に問題がある可能性もあるように思います」といったところでしょうか。

4.ドイツを引き合いに出す安易さへの注意

先方様が、本件に絡んで「ドイツ」を持ちだされました。日本の戦争責任について、ドイツと比較する考え方があるのは理解します。しかし、日本の戦争に関する責任については、ドイツのそれと全く異なるものと考えております。

この点、もう15年近く前(1996年の1月頃)に書いた、私の学士論文でまとめております。時代は移り変わっておりますし、何よりも私自身が学生で、問題認識が浅はかな部分も散見されますが、ドイツとの関係性に関しては、それなりに整理ができているのではないかと思います。
※「日本の戦後補償問題

5.匿名の掲示板へのスタンス

先方様からは、匿名性が確保される掲示板への書き込みを勧められましたが、私はこれを辞退いたしました。私としては、インターネットにおいて、匿名で参加できることをいいことに、無責任な発言や荒らし行為が繰り返される問題について、非常に重く受け止めております。そして私自身、それらの行為者と同等レベルで、匿名の無責任な書き込みをすることには、強い抵抗感を覚えるため、インターネットでの議論には、基本的に実名で参加したいと考えている次第です。

そう考える以上、お誘いがあった掲示板に対して、私は実名で書き込むことしか頭にありません。ただし、今回の件について、私がそこまでして書き込んで、それに対してどのような反応があったか等、いちいちその掲示板をフォローする等という手間はかけたくないとも思っています。

匿名でコメントできるという意味では、このブログも同じではありますが、少なくともコメントが寄せられれば、自動的に私がそれを認識することができますし、そもそも、そんな実名の私宛にわざわざコメントをくださる方に対しては、きちんと対応したいと思っているため、外部の掲示板と本ブログへのコメントでは、まったく意味合いが異なると考えています。お誘いをお断りして心苦しくはありましたが、こうした理由により、私としては、外部掲示板との距離を一定に保ちたいと思っています。

ざっと、こんなところです。先方様には、このブログ記事のことも伝えましたし、何かご意見があるようなら、こちらにコメントをいただけるものと思います。

それにしても、オープンに議論をするというのは、とても大切なことです。そして、議論をする以上、それに相応しい真剣味や緊張感というのは、あって当然だろうと思います。さらに議論する相手に対して、できるだけ丁寧に伝えようとすると、私の場合、これくらいの分量になるのは、やむを得ないところでもあります。

こんなことを踏まえて考えると、Twitter上で深い議論をするというのは、とてもとても難しいと思うのでした。

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2010年1月期のアニメ

2010年02月04日 | ランキング

1月からのアニメが始まって、約1ヶ月が経過しました。ひとまず、今期のアニメランキングをつけるとこんな感じです。

順位

タイトル
コメント

はなまる幼稚園
杏ちゃんの背伸び具合がカワイイです。それを盛り上げる柊ちゃんのインテリぶりもポイントですかね。

デュラララ!!
何か惹きつけるストーリー展開です。首なしライダーの正体は?みたいな・・・。それと個人的には沢城さんのポイントも高いかなぁ。

ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
OPとかは、もうジブリそのものって感じです。いや、むしろジブリに代わって、こういう作品にもっとお金を投じて欲しい気がしています。

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド
ヴァンパイアによる日本征服シナリオとか、誠に興味深い気がしています。自分なりにリアル世界と重ねつつ見ています。

バカとテストと召喚獣
いやもうシンプルにおバカなところが良いです。「バッカだなぁ、しかし・・・」等とブツブツ言いながら見ています。

その他、今期のアニメで見ているのは、「のだめカンタービレ フィナーレ」、「聖痕のクェイサー」、「おまもりひまり」、「おおかみかくし」、「ひだまりスケッチ×☆☆☆」、「刀語」、「ちゅーぶら!!」、「れでぃ×ばと!」といったところです。こういう作品は最終話に向かって、突然、盛り上がったりすることもあるので、とにかく時間が許す限り、ボンヤリとでも見続けたいと思います(これはこれで、結構楽しいのです)。

それと前期から続いている「君に届け」、「とある科学の超電磁砲」、「戦う司書 The Book of Bantorra」等が、相変わらず面白いと思います。先日の「君に届け」の回想話では、あらためて涙腺崩壊を起こしてしまいました(最近は、どちらかというと風早との絡みでニヤニヤな展開ですね)。これらの作品については、今期中の展開も楽しみです。

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無記名投票の無責任

2010年02月03日 | 社会

相撲協会の理事選で、貴乃花親方が選出されました。自分と同世代であり、古くなってしまった組織を改革されようとする貴乃花親方に対しては、素直にエールを送りたいと思います。

ところで、今回の選挙では、その投票方法が大きな話題となりました。組織的な締め付けが厳しい今回のような状況では、「無記名投票こそが公平・公正な選挙になる」ということだったようですが、私は、この考え方に、ちょっとした違和感を覚えます。もちろん、今日の相撲協会の体質を考えれば、無記名で投票した方が、投票者の本音が出やすいし、それこそが選挙の本来あるべき姿であるという意味は分かるので、その議論の全てを否定しようなどというつもりは毛頭ありません。

しかし、それでもやはり、選挙において投票の権利を行使するからには、それに伴う責任を負って然るべきです。無記名投票は、投票者に対して、その責任を自覚させるどころか回避させてしまうという意味で、無責任投票者を生む欠陥制度ではないかというのが私見です。そして、この欠陥制度が正しいとされてしまうのは、そもそも選挙が行なわれる組織自体に問題があるからと言わざるを得ないということです。そういう意味で、今回の議論は、あくまでも相撲協会でのケースについてのものであり、無記名投票が良いかの如き議論を許してしまうのは、偏に相撲協会が抱える(締め付け等が指摘されるような)組織としての問題故なのだろうと私なりに解釈しています。

そもそもの筋論で言えば、組織の締め付けが強く、本音で投票することが造反と取られるといったところで、陰でコソコソと造反をする程度の覚悟しかないのであれば、最初から造反などするべきではないという見方もあるでしょう。自ら先頭に立って、堂々と理事選に立候補した貴乃花親方はもちろんのこと、一門を離れて貴乃花親方を支持した親方衆は、この点、立派に筋を通されたと思います。そして、本当に責任感を持って、この方々を支持するのであれば、無記名投票よりも、むしろ記名投票の下、堂々と意思表明をされたらどうかという視点があってもよいのではないかと思うのです(ただし、今回、造反したとされる方々が、たとえ公開性の高い投票方法であったとしても、同じように貴乃花親方に投票したかもしれませんので、今回の個別の投票行動について言及するつもりはありません)。

もちろん、人間には、いろいろな弱みがあるでしょうから、「そうは言っても・・・」という言い分もあるでしょう。それを否定するつもりもありません。

ただ、投票という権利行使とそれに伴う責任との関係性から、正論を述べるならば、無記名投票よりも、むしろ記名投票の方が、遥かに強い覚悟と責任感を持った人々によって行なわれる選挙になり得るのであり、結果として、「公平・公正な選挙」な選挙に繋がるという視点を示しておきたいと思うのです(少なくとも、無記名投票こそが正しいという議論には、釘を刺しておきたいと思います)。

突き詰めて言うと、こうした選挙のあり方は、広く政治の世界における選挙の考え方にも繋がってくるかもしれません。つまり、責任ある有権者とは何なのか、国民に真剣な投票行動を起こしてもらうためにはどうするべきかというヒントが、このあたりに隠されているのではないかとも思うのです。こうした問題は、将来的な政治システムの課題でもあるよう気がします(「投票の権利と責任」参照)。

《おまけ》
立浪一門から名乗り出た安治川親方が、貴乃花親方に票を投じたことを明らかにし、相撲協会を去るという報道がありました。筋を通して、見事に刺し違えたと思います。もちろん、これからの人生、協会でぬくぬくと生きていくようなことはできなくなるという意味で、大変になるでしょう。しかし、こういう覚悟を持って臨んだ人こそ、真に相撲協会の未来を考えていたかもしれないことは、けっして忘れてはいけないし、私個人としても、こうした筋を通せるような方々と共に、新しい社会作りに励みたいと思います。

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お気楽なブログ

2010年02月02日 | 自分

しばしお休みをしていたブログでしたが、(自分の中のことながら)何となく諸々の整理がついたこともあり、お休みを解除することにしました。

既述の通り(「ブログの目的と小休止」参照)、このブログを立ち上げた当初は、自分なりにブログの目的と問題意識を明確に持っていたのですが、今後は、あまりそういうことに囚われず、もっとお気楽な感じで、単純に「書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書く」ことにしたいと思います。

何となくこの心境になれたことが、自分としては、きちんと次のフェーズに入れたような感じがして、ちょっと嬉しい気がします。

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ギブスが取れました

2010年02月02日 | 日常

今日、ようやく右手のギブスが取れました。実は、人生初の左打者転向を実現すべく、バッティングセンターに通いつめて、とにかく一番速い球だけを打っていたら、指を傷めてしまったのです。最初、空振りをしている間は、ほとんど気付かなかったですが、下手にボールに当たるようになると、当たり損なった時の衝撃が、意外と大変なようなのです。それに気付いた時には、既にバットを握れなくなっており、ギブス生活を余儀なくされる羽目になったというわけです。

約二週間のギブス生活を終え、今日からさらに二週間リハビリです。

それにしても昨日、ギブスをはめた右手のことを聞かれたので、「デジタル思考なんで、やらない間は徹底してやりませんが、やると決めたら徹底してやっちゃうんです」と答えたら、「体はアナログだから気をつけてください」と言われました。

至極、当然のことながら、不思議と「なるほど」と思わされました。それと同時に、体を守るためにも、もう少し思考のなかにアナログ的要素を取り入れてみようか等とも思うのでした。

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