何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

鉄道マンの誇りって、何だ?

2005-05-08 11:53:11 | JR西に学べ
 「鉄道マンとして判断の甘さがあった」というのが、しばしばJR西から聞かれる言葉だ。ここに違和感を感じるのは、“重箱の隅をつつき過ぎ”だろうか・・・。

 「甘さ」というのは、考えていないわけではなかったが、十分ではなかった、認識が足りなかった、といったニュアンスだ。もう少し徹底していれば防げた、こんな事態には至らなかった、というふうに、自分たちを擁護する響きがある。

 遺族もそう思うだろうか・・・。甘いか辛いかじゃなくて、認識が欠落していたか、判断が誤りだった、というべきではないのだろうか。いまだに「甘かった」ということ自体が、甘いんじゃないかと。

 自分は「鉄道マン」だという時に、何を誇っているんでしょうか? 現役でも、退職者でもいい。教えて欲しい。台車の点検一筋に30年やってきました、なんて言われると、おかげさまでいつもJRを利用させていただいています、なんてつい感謝してしまうだろう。そればかりではないはず。

 「少ない人員と少ない投資で利益を上げて・・・」ということを第一に言ってきた以上、たとえ同時に「安全」をも求めたところで、利益優先がそれを排除してしまうことは容易に予想できるのだ。そこを、いくら「そうじゃない、安全性を無視してまで言っていない」と言ったって、業務のある場面でどちらをとるかの判断すら当事者に任されていない状態なのだから、会社は、具合の悪い原因があれば都合よく社員に押し付けるだろうから、結局社員は自分を守ろうと思い“第一”とされるもの、すなわち利益優先に走らざるをえなくなってしまうのだろう。そう考えると、やはりいろいろな意味で事故は人災なのだと思う。
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自浄能力が期待できるのか?

2005-05-08 11:37:55 | JR西に学べ
 JR西は企業風土を変えると言っているが、それが難しいことは前述した。さらに、そればかりかJR西にそれが期待できないと感じさせるのが、「社外重役を入れない」と言っているくだりだ。迷っているふうでもない。自分たちで再生したい、できると思っているんだろう。

 ところが、だ。事故後の社員の目にあまる行動が次々に明るみに出て、それは一見、事故とは無関係かもしれないが、そこの捉え方がJR西と国民とズレているのではないかと思う。JR西は、世間との感覚がズレていたことを“一部は”認め、企業風土改革などと言っているが、やはり本音は運転士の異常なスピードの出し過ぎだと、いわば個人の責任があったんだと、それが最大の理由だと思っているのではないか。

 国民は必ずしもそう思っていない。確かにスピードの出し過ぎさえなければ、ということはある。しかし、そこには遠因だとか、背景というものがあって、それこそ「真の原因」だろ、と見ている。「直接の原因」と「真の原因」との認識のズレ。ここが果たして改革されるのだろうか。

 だから社外重役の存在が意味を持ってくる。ただでさえ社内は風通しが悪い、悪すぎる。区長にさえその後のことを恐れて進言すら出来ないのに、安全部長になんて何も届くはずがない。企業には社外の目、国民の目が入らないと、社会の要求が何か、企業の社会における存在意義が忘れ去られてしまうだけであって、いきつくところ企業が暴走してしまう、事故は再発してしまうのだろう。(続く)
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