陪膳(ばいぜん)とは、「禁中で供御を奉じる時、又武家で儀式の時
など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/a9/4184dd72a0ceccd9be5b1e107fe31e19.jpg)
膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/70/18243d4021e05e81959e763741fdbd95.jpg)
江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。
二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/b1/4fe4f374c9006e882fbce5f3110a77af.jpg)
貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/61/6333064feabdc454ce39e93383ed7567.jpg)
木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/a8/c345b76c77ed978bba02477694affafa.jpg)
小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/83/1e5e1924e81cd46d99e49b3be5eca6c6.jpg)
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など、膳部の給仕を務める者」(広辞苑)のことである。
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膳所は天智天皇の大津宮の時代、琵琶湖で獲った魚を調達する陪膳浜
(おものはま)といわれた地で、御厨(みくりや)が置かれていた。
「陪膳浜」は、湖に面した浜一帯の古い言い方で、膳を賄う所が有っ
た事から、「膳所」という地名になったらしい。
今でも街道沿いに、琵琶湖名産の川魚を商う店を見ることが出来る。
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江戸時代になると、瀬田の唐橋や東海道を掌握する為、徳川家康が大
津城を廃城とし、膳所に新たな城を築いて以来、軍事的な城下町として
栄えていきた。その為か、膳所城下を抜ける東海道は、まるで鋸の歯の
様に何度も折れ曲がる。
二十七曲りと言われた岡崎城下程では無いが、曲り道が多いのも如何
にも要衝の城下町らしい。
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貞享2(1685)年の資料によると、総人口は3,094人とされる。
総戸数は930軒で、内訳は侍屋敷が499軒、町家が409軒あり、寺院は何
と22カ寺にものぼり、一朝有事の備えが成されていたことが窺える。
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木下町に和田神社があり、本殿は鎌倉時代の建築で重要文化財という。
和田神社から敬願寺を過ぎ、更に響忍寺に突き当り、そこを右折する。
この寺は元々膳所城周辺にあった。
火災により焼失したが、宝暦元(1751)年に膳所藩家老・村松八郎右衛
門屋敷跡に再建された。表門と中門には屋敷門が使われている。
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小さな相模川を渡り西の庄に入ると、石坐(いわい)神社が鎮座して
いて、更に桃源禅寺、法伝寺を見て、馬場町に入る。
道辺に「膳所城北惣門跡」の石碑が立っていて、ここが昔の膳所藩北の
入口である。(続)
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