簾 満月「バスの助手席」

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木曽義仲と松尾芭蕉(東海道歩き旅・近江の国)

2024-06-26 | Weblog


 木曽義仲を弔った「義仲寺」は、松尾芭蕉とも所縁深い寺である。
芭蕉が生きた時代と義仲の頃とは、凡そ500年の時代差があるが、芭蕉
は今で言う「義仲推し」「義仲ファン」であった。



 義仲寺の境内のいたるところに句碑が立ち、その数20基程だが、芭蕉
の碑も3基ある。
中でも「行く春を 近江の人と おしみける」は、直筆と言われている。
 「義仲の 寝覚の山か 月悲し」は、義仲が破竹の勢いで京に進撃した
昔をしのんで詠んだといわれる一句だ。



 芭蕉は義仲を深く敬愛し、人情深い大津近江の地、琵琶湖に臨む美
しい景観が殊の外好きだったらしく、「骸(から)は木曽塚(義仲寺)
に送るべし」との遺言を認めていた。

 芭蕉は、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」の辞世の句を残し、
元禄7(1694)年10月12日、摂津国で無くなったが、その遺言に従い
「義仲寺」に送られ、義仲の墓の右隣に墓が造られたという。



 境内にある翁堂(芭蕉堂)は、安政5(1858)年に再建された芭蕉翁
を祀るお堂である。
芭蕉亡き後の18世紀頃には、寺の荒廃が進み、半ば忘れられたらしい。
 それを嘆き、生涯をかけて復興に努めたのが蝶夢(ちょうむ)と言う
俳僧であった。彼は芭蕉の百回忌に向けて翁堂を復興した。



 後に「おくの細道」の旅を終えた芭蕉が、その年末に過ごした場所と
言われている。その後も何度か常宿として滞在し、俳諧の会等が行われ
るようになった。

 無名庵に芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は芭蕉の弟子で、「木曽
殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んだ句碑などもある。(続)





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