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木曽義仲を弔った「義仲寺」は、松尾芭蕉とも所縁深い寺である。
芭蕉が生きた時代と義仲の頃とは、凡そ500年の時代差があるが、芭蕉
は今で言う「義仲推し」「義仲ファン」であった。
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義仲寺の境内のいたるところに句碑が立ち、その数20基程だが、芭蕉
の碑も3基ある。
中でも「行く春を 近江の人と おしみける」は、直筆と言われている。
「義仲の 寝覚の山か 月悲し」は、義仲が破竹の勢いで京に進撃した
昔をしのんで詠んだといわれる一句だ。
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芭蕉は義仲を深く敬愛し、人情深い大津近江の地、琵琶湖に臨む美
しい景観が殊の外好きだったらしく、「骸(から)は木曽塚(義仲寺)
に送るべし」との遺言を認めていた。
芭蕉は、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」の辞世の句を残し、
元禄7(1694)年10月12日、摂津国で無くなったが、その遺言に従い
「義仲寺」に送られ、義仲の墓の右隣に墓が造られたという。
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境内にある翁堂(芭蕉堂)は、安政5(1858)年に再建された芭蕉翁
を祀るお堂である。
芭蕉亡き後の18世紀頃には、寺の荒廃が進み、半ば忘れられたらしい。
それを嘆き、生涯をかけて復興に努めたのが蝶夢(ちょうむ)と言う
俳僧であった。彼は芭蕉の百回忌に向けて翁堂を復興した。
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後に「おくの細道」の旅を終えた芭蕉が、その年末に過ごした場所と
言われている。その後も何度か常宿として滞在し、俳諧の会等が行われ
るようになった。
無名庵に芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は芭蕉の弟子で、「木曽
殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んだ句碑などもある。(続)
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