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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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旭川の船運(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-15 | Weblog
 京橋の架かる旭川の、嘗ての舟運の航行最上流地は、八束村の上長
田と伝えられている。現在の真庭市で鳥取県境に近い蒜山高原の一角、
標高は400mを超える地だ。
往時は源流域も近い上流まで、高瀬舟による舟運が行われていた。



 水深1丈3尺5寸(凡そ4m)程あった江戸期の旭川は、要所の福島、
牟佐(何れも岡山市内)や福渡(建部町)等には舟番所が置かれ、千石
船も頻りに行き交っていた。
 その旭川の主要な内港が、岡山城下の京橋港で、その下流河口に近い
三蟠港がその外港であった。



 明治30(1897)年には四国の讃岐鉄道が高松と丸亀間で営業を開始、
これを機に三蟠港と高松港を結ぶ海上37㎞の定期航路が開設される。
岡山から瀬戸内海を隔てた高松までは、乗り換え時間を含めても4~6
時間で連絡が可能となった。



 ところが旭川の川底には年々土砂が堆積し、数十石船すら通航に苦し
むようになる。更に明治期になると川床は更に上昇し、水深は江戸期の
半分程度となり、運行に支障をきたし、京橋港が機能不全に陥ることも
しばしば発生するようになる。



 船便運休時には代替交通として人力車を走らせ、臨時の乗船場を設け、
浅吃水汽船を採用するなど様々な対策が講じられたが、これで全ての問
題が解決される事は無かった。
四国連絡の重要なルートがこの有様では・・・、とばかりに別ルートが
検討されることになる。



 それが宇野線の開通と宇高連絡船の開設で、明治43(1910)年に運
行が始まった。時間も3時間余りに短縮され、利便性が格段に向上する
こととなる。
こうなると、京橋~三播~高松ルートの存続意義は無くなってしまう。(続)



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