簾 満月「バスの助手席」

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重要港湾・三蟠港 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-18 | Weblog
 岡山平野の耕地面積の凡そ7割は、干拓により新たに生み出された地
と言われている。江戸時代に岡山藩主・池田綱政の命により、津田永忠
が干拓した沖新田もその一つだ。凡そ12㎞に及ぶ廻り堤を築き、内陸部
を干拓する丁場は、9つに分けて工事が進められた。



 それぞれの工区で競わせ、早期に完工する事を狙ったものと伝えられ
ている。九つの丁場の名残は今も、沖新田周辺の九蟠港や六番川、或は
四番川、三蟠港等、数字の入った名で知ることが出来る。



 その一つ三蟠港は、江戸時代末期に誕生した港である。
岡山城下の京橋港の外港として発達し、ここで船を乗り継いで四国に向
かう連絡船が出ていて、牛窓や下津井と並ぶ主要な港湾と位置付けられ
ていた。
特に宇高連絡線が開通する以前は、ここが高松に渡る主要港でも有った。



 三蟠港当時の波止場は、今は無く巨大な防波堤の下に眠っている。
平成24年に起きた高潮による浸水被害を防ぐための改良工事が行なわれ、
堤防道路が盛土により嵩上げされ、更にそれよりも高く、幅も広げられ
た堤防が築かれ、嘗ての波止場はこの下に埋め込まれてしまった。



 明治天皇は全国御巡幸の最期の地、岡山へは海路での御行啓で有った。
明治18(1885)年の事で、御召艦「横浜丸」により児島沖に到着した。
そこで蒸気船に乗り換えてこの三蟠港に上陸されたと伝えられている。



 堤防下の道路脇には、三蟠港跡と明治天皇御上陸記念碑が建っている。
余談になるが7月20日の「海の日」は、明治天皇が北海道巡幸から「明
治丸」で帰途の折り、横浜港に無事到着された日を記念したものらしい。(続)



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