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萬歳山國清寺(ばんざいさん こくせいじ)は、臨済宗妙心寺派の
禅寺である。 慶長14(1609)年、姫路城主・池田輝政の嫡子である
池田利隆が建立した。
利隆は、後に岡山藩主となる池田光政の父親に当たる人物である。
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当時の岡山藩下には、天台宗や真言宗等の密教系寺院や、日蓮宗の
お寺が多く建立されていて、そんな地に臨済宗を招いたことは注目さ
れたという。
創建当初は「法源寺」と称していたが、その後「竜峰寺」と改称、
現在の「國清寺」になるのは、寛永9(1632)年の事だ。
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池田光政が、国替えにより姫路から岡山に転じた年である。
祖父輝政の法名「國清寺殿」による改称で輝政と父利隆の菩提寺とした。
旭川を背にした寺は、東西81間(145.8m)、南北73間(131.4m)の
堀と塀に囲まれ、4,500坪余りの敷地に伽藍を構え、池田家の繁栄と共に
確たる地位を築いてきた。
又城の東の備えとして、重要な位置付けがされていた。
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岡山市発展の礎は、宇喜多直家・秀家父子による城下町造りに負うと
ころが大きい。直家は、沼城から石山(現岡山城の前身地)に城を築き
本拠を移し、その南側に城下町の形成を目指した。
その後本丸を石山から現在地の岡山に移したのは秀家である。
当時城下の遙か北を通り抜けていた西国街道(山陽道)を、城下を抜け
るよう付け替え、新道には旭川を跨ぐ京橋を架け、町の賑わいに務めた
のである。
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東の入口、森下の惣門を潜り、片上橋を渡り南に向いていた街道は、
今日の吉備団子の老舗が立地する角、小橋町で直角に西に曲がる。
すると左手には、当時偉容を誇っていた國清寺の築地塀が京橋に向け
て延びていた。(続)
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