簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

國清寺 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-09-11 | Weblog


 萬歳山國清寺(ばんざいさん こくせいじ)は、臨済宗妙心寺派の
禅寺である。 慶長14(1609)年、姫路城主・池田輝政の嫡子である
池田利隆が建立した。
利隆は、後に岡山藩主となる池田光政の父親に当たる人物である。



 当時の岡山藩下には、天台宗や真言宗等の密教系寺院や、日蓮宗の
お寺が多く建立されていて、そんな地に臨済宗を招いたことは注目さ
れたという。
 創建当初は「法源寺」と称していたが、その後「竜峰寺」と改称、
現在の「國清寺」になるのは、寛永9(1632)年の事だ。



 池田光政が、国替えにより姫路から岡山に転じた年である。
祖父輝政の法名「國清寺殿」による改称で輝政と父利隆の菩提寺とした。

 旭川を背にした寺は、東西81間(145.8m)、南北73間(131.4m)の
堀と塀に囲まれ、4,500坪余りの敷地に伽藍を構え、池田家の繁栄と共に
確たる地位を築いてきた。
又城の東の備えとして、重要な位置付けがされていた。



 岡山市発展の礎は、宇喜多直家・秀家父子による城下町造りに負うと
ころが大きい。直家は、沼城から石山(現岡山城の前身地)に城を築き
本拠を移し、その南側に城下町の形成を目指した。

 その後本丸を石山から現在地の岡山に移したのは秀家である。
当時城下の遙か北を通り抜けていた西国街道(山陽道)を、城下を抜け
るよう付け替え、新道には旭川を跨ぐ京橋を架け、町の賑わいに務めた
のである。



 東の入口、森下の惣門を潜り、片上橋を渡り南に向いていた街道は、
今日の吉備団子の老舗が立地する角、小橋町で直角に西に曲がる。
すると左手には、当時偉容を誇っていた國清寺の築地塀が京橋に向け
て延びていた。(続)



  こちらもどうぞ 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鈴鹿峠 (東海道歩き旅・伊... | トップ | 寺と街道 (三蟠鉄道廃線跡... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事