
「これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの川原の かささぎのはし」

天野川は、奈良県の生駒山地に水源をもつ一級河川で、交野から枚方
を経て、枚方から700m程西で淀川に合流し、大阪湾に注いでいる。
民家の詰まった「天之川町」の旧道を350m程進むと、その天野川の
土手に突き当たる。江戸時代ここには「鵲(かささぎ)橋」という、長
さ17間、幅3間1尺の木橋(板橋)が架けられていた。

元文2(1737)年に発行された「岡新町村明細帳」や「河内名所図
会」には「天川(あまのかわ)」の鵲橋が紹介されているが、本来幕
府はこの川への架橋は禁じていたらしい。
ところが御三家の一つ、紀州家の参勤交代の折に限っては、仮橋の
架橋を許可していた。橋は使用後も取り外さず、壊れるまで銭取り橋
として通行料をとって使っていたが、橋が無くなると、人足により徒
歩渡しを行っていたようだ。

橋の名前は、淀川方面から眺めると、カササギが羽を広げたように見
えることに因んでこう呼ばれるようになった。また鵲の橋とは、旧暦の
7月7日の七夕の日に、天の川に「織姫」と「彦星」が出会うためにで
きる橋の名前で中国の故事にあるらしい。

橋は岸辺の岡・岡新町の両村が共同で管理をしていたが、修繕や架け
替えの費用などは幕府が負担をしたとの記録が残されていると言う。
一般的には幕府が負担するなら「公儀橋」となるが、本来架橋は認めて
いなかったのなら、これは矛盾する。

幕府の施策も江戸初期の頃に比べれば、中期以降は御法度も随分と緩
くなったらしい。当初はダメでも後に良しとなったものもあり、この橋
もその類いかと思ったりする。(続)
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