簾 満月「バスの助手席」

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淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-28 | Weblog
 信長の天下布武の礎となった清洲は、尾張の中心的な場所であるが、
東海道筋からは北に大きく外れ、低湿地帯で水害が多かった。
地の利の悪い清洲を、常々憂慮していた家康は、慶長17(1612)年、
名古屋に新城を築くことを決意する。



 政情が不安定な時期で、西国の大名に対する備えとしての城である。
この時期に敢て本拠を変えるのは、不便でもあったが、一方では信長・
秀吉が活躍した場を払拭する思いが有ったとも言われている。
完成を機に、清洲の町をまるごと名古屋に引っ越すことが決まった。



 世に「清洲越し」と言われるものだ。
武家はもとより町人まで、家屋敷から家財道具一切合切を運び出させ、
これに従う住民を優遇し、城下の中心に住まわせる算段である。
神社仏閣から商店に至るまで引っ越した為、人口六万人を誇った清洲の
町は、農民だけが残り一瞬で寂れた農村に戻ったと言われている。



 何もかもが引っ越すこれほどまでの大移動だが、どのルートを経たの
か未だに解ってはいない。
美濃街道から庄内川を渡った陸路なのか、或は五条川から庄内川を下り
伊勢湾に出て堀川を遡る水路が考えられるが、当時の記録が何もなく何
れも仮説で、定説にはなっていない。



 町ごと引っ越す大規模なイベントは、労力も資金も統制も必要である。
まかり間違えれば、城下が大混乱を引き起こす。

 しかし、整然と行われている。
それには時の施政者の指揮命令系統が、充分に機能していたからで有ろう。
それなのに、手配りなどの通達文書や高札等の記録が無いとは、なんとも
不思議である。



 完成した名古屋城に第九子・義直が初代藩主として入城したのは元和2
(1616)年のことだ。
それは奇しくも、名古屋城の築城と、城下の整備に情熱を傾けた家康が亡
くなった年でもあった。(続)





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