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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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瀬戸大橋の影響(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-07 | Weblog


 JR宇野線、宇高航路、宇野の町までを疲弊した姿に変えてしまった
瀬戸大橋は、昭和63(1988)年4月10日に華々しく開通して以来、35
年以上が経過した。
 上部は瀬戸中央自動車道が、下部には本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)
が走り、将来は新幹線の敷設を見据えた橋だ。



 フェリーが1時間掛けていた海峡部は、新たに運行を始めたJR四国
の快速マリンライナーなら僅か数分を要するだけだ。
岡山と高松間は1時間余りに短縮された。

 嘗て岡山市内から旭川を下っていた時代は、数時間を要していた。
その後の国鉄宇野線と宇高連絡船の開通で所要時間が半減された。
橋の開通はそれ以来の大革新となっていた。



 橋が開通した初年度、鉄道利用者は連絡船時代の同期比で凡そ2.8倍
に急増し、本州から四国へ渡る人々の流れを大きく変えてしまった。
 岡山と香川は完全に通勤・通学圏に入り、瀬戸内経済圏の相互の結び
つきは強まり、両地域はじわじわと変容の波にさらされる事になる。



 「夢の架け橋」と持て囃された橋ではあるが、当初高速道路の通行料
金は馬鹿高く、常軌を逸した設定との批判が殺到し、長期に渡って利用
が低迷した。
 長距離を走るトラック等は、乗船中の1時間は休憩が出来、料金も安
いとしてフェリーを使い続け、橋を渡る高速を避けていた。



 ところがその後は料金が段階的に引き下げられ、いまでは開業当初の
1/3程度になると、流石にフェリーでは太刀打ちできず、利用者はジ
リ貧状態となりで、衰退の道を辿ることになる。

 ただ大橋は風には弱く、通行止めになる事もあり、それの代替として
の機能は残されたものの、これだけでは経営基盤は安定しなかった。(続)





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