簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鳥居強右衛門勝商 (JR乗り潰しの旅・飯田線)

2021-01-20 | Weblog
 豊川を出るとここから先は単線になる。
東名高速道路を潜り、砥鹿神社のある三河一宮、賑やかな新城などに停
車を重ね、大きなS字カーブで鳥居、長篠城を経て本長篠に到着する。
列車はここで17分間停車する。



 天正年間の三河国、世は戦国時代で、この辺りは「長篠の戦い」所縁
の地である。

 徳川家康から託され約500人の兵士で守る長篠城を、その30倍もの大
群を率いた武田軍が包囲し、過酷な籠城戦と成っていた。



 武田軍の火矢により食料蔵を失った奥平貞晶は、城から討ち出て戦い
を挑む事を決意する。
その上で家康の居る岡崎城に援軍要請の使者を送る決断を下すが、大軍
に包囲されている状況下で、それは命がけの困難な任務であった。



 これを自ら志願したのが、奥平家の足軽・鳥居強右衛門勝商(とりい
すねえもんかつあき)であった。
夜陰に乗じて城の下水口から脱出、寒狭川を潜り抜け出した強右衛門は、
駆けに駆けて、その日の夕方には岡崎城に到着する。
この時既に織田信長の援軍も到着しており、織田・徳川連合軍約3.8万の
軍勢は翌日長篠への進軍が軍議で決められていた。



 この朗報をいち早く伝えようと城に戻るが、その途中武田軍に捕まって
しまう。事情を知った武田軍は、助命し家来に引き立てるから援軍は来な
いと伝えろと命令する。
従うふりをした強右衛門は、引き立てられると処刑を覚悟の上で、「援軍
は二三日で到着する」と城に向かって大声で叫んだという。



 これにより士気の高まった長篠城の城兵は、援軍が到着する迄の二日間
持ちこたえ、城を守ることに成功する。
この忠義の士の最期の地が、二駅手前のこの鳥居である。
駅に程近い新唱寺には、この三河武士をたたえる墓があるという。(続)



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