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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

天狗山トンネル (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-09 | Weblog
 線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を、左にカーブしながら続い
ている。前方に同線では最初の、「天狗山トンネル」の馬蹄形の入口が
見えてきた。



 宇野港の背後に聳える天狗山(162.0m)の南裾辺りに穿たれたトン
ネルで、玉野高校前駅からは僅かに上り、標高も若干上がって4m程の
場所にある。



 トンネルの長さは179mあり、玉野市電に3つあったトンネルの中で
は最長だ。入口上部に、錆びついて赤茶け僅かに残る金属片が見られる
が、電車時代の架線を支えたパーツのようだ。
 鉄道は経営の合理化、燃費の低減を狙って途中から電車をやめ、気動
車に変更されているが、その折にも撤去されず残されたものらしい。



 右側に山裾が迫り、左は住宅が有るものの高いコンクリート壁、上部
も草木が生い茂る入口付近は、小さな口が何となく不気味な雰囲気を醸
し出している。ただ内部には蛍光灯が灯されているので意外に明るいが、
単線軌道のトンネルらしく圧迫感を感じるほどに狭い。



 トンネルはやや右にカーブして通されていて、短いながらも入口から
は出口は望めない。内部の所々には、現在では意味をなさないような金
属パーツや金網で覆われた部分が見えるがこれらは鉄道の名残のようだ。



 住宅地にある鉄道のトンネル跡では、自転車や散歩する幾人かの市民
ともすれ違い、専用道路らしく市民に便利に使われている様子だ。



 トンネルを出て振り返ると、入口の薄汚れた様に比べると、こちらは
コンクリートが白くて新しく見える。近年補修工事が施された様子で、
その経緯は、傍らに張られた銘板で知ることが出来る。(続)



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玉野高校前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-07 | Weblog
 「この道は市民の健康増進を図るため造られたジョギングロードです。
コルクを混入させた柔らかい材料で鋪装されている。」
入口付近に古びて文字が消えかかり、辛うじて判読できる利用者に呼び
かける看板が立てられていた。



 県道22号を越える横断歩道橋を下りた辺りから自転車・歩行者専用道
路が始まった。しかしここまで歩いてきたが、普通の路面のようで、特
別な柔らかさなど感じられない。

 年月を経て、堅く固まってしまったのかも知れない。
その赤く舗装された道を、左の宇野中学校のフェンスに沿って歩いて行く。



 学校を過ぎ、道路を越えて小さな川を渡ると、その先右側に傾斜のあ
る道路が見えてくる。ここが二つ目の駅、「玉野高校前駅」の跡だ。
 傾斜のある道路は、駅のホームそのもので、その跡が残されそのまま
舗装道路になったらしい。



 広潟駅からは200m程離れた場所で、起点の宇野駅からも900mしか
離れていない。この先も駅間は可成り短いところが多い。
住民の利便性が考慮され、足になるべく至近に駅がつくられた様が窺
い知れるが、駅間はまるで路面電車の様相である。



 玉野高校は、戦前の昭和14(1939)年に創立された「岡山県日比高
等女学校(旧制)」が前身で、同校は後に「岡山県立日比高等学校(新
制)」になった。



 その2年後に創立されたのが「岡山県玉野中学校(旧制)」で、こち
らは後に「岡山県立玉野高等学校(新制)」と成り、この両校が昭和24
(1949)年に統合され、現在の男女共学普通科単独校「岡山県立玉野
高等学校」として誕生している。



 この辺りは小・中学校も立地し、文教地区となっていて、玉野市電が
開通すると、高校生を始め、生徒達の足として重宝されたようだ。(続)



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廃線跡を歩く(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-04 | Weblog
 「玉野市電」が廃線になると、市は廃線跡の自転車・歩行者専用道路
化を決めた。半年後には工事に着手し2年後には工事が完了し、廃線跡
の多くが再利用されることになった。

 その廃線跡を、国鉄駅に乗り入れていた起点の宇野駅から、終点の玉
遊園地前に向かい、辿り歩いてみる。



 始発の宇野駅は、現在の宇野駅前交番付近とも、駐車場前の電話ボッ
クス辺りに有ったとも言われている。
 JR宇野駅の周辺は、連絡船の廃止や、宇野線の衰退により広大なヤー
ドは不用に成り、一帯は駅の縮小を含めた大規模な再開発工事が行なわ
れていて、その場所を定かに特定することは出来なくなった。



 鉄道は、後には国鉄のホームに乗り入れたらしいが、今となっては旧
国鉄宇野の駅舎の場所さえも分からず、また線路跡等の遺構も残されて
はいず、特定は困難になっている。

 人々の記憶には残っているのであろうから、せめて今のうちに紹介板
など整備すればと思うのだが、それらの類いも今は無い。



 何れにしてもこの辺り(今日の駐車場の場所)から、JRの線路と平
行して北に向かい、緩やかに左に向かってカーブして進んでいたようだ。

 少し進んだ両備バス玉野営業所の有る辺りには、それと覚しき形状を
した空き地が残されている。



 抜けると小さな広潟公園があり、その緩く左に曲がったヘンスに沿っ
て駐車場に成っているところが線路跡らしい。辿っていくと県道22号を
越える横断歩道橋が見えてくるが、この先辺りに広潟駅が有ったようだ。



 右手の民家の奥には三井造船の社員寮が有り、造船所に通う社員の通
勤の足と言うだけに最適な場所に駅が有ったようだが、駅は鉄道の開通
当初には無く、暫く後の昭和35(1960)年年4月1日の開業である。(続)





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宇野線の凋落(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-02 | Weblog


 昭和63(1988)年、瀬戸内海を跨ぐ瀬戸大橋の児島・坂出ルートが
全線開通する。橋の上部が瀬戸中央自動車道で、下部に鉄道が通る併用
橋となり鉄道部分は将来の新幹線開業を見据えスペースが確保された。

 これにより倉敷市の茶屋町と対岸の宇多津町の宇多津駅を結ぶ、本四
備讃線(31.0㎞)が瀬戸大橋線の愛称で華々しく開通した。



 四国・高松との間に、快速・マリンライナーが頻発され、凡そ1時間で
結ぶ事になる。更に松山行き「しおかぜ」、高知行き「南風」、徳島行き
「うずしお」等の昼行特急列車や、夜行寝台特急の「サンライズ瀬戸」等
も運行された。反面大橋を渡る普通列車は運行されることは無かった。



 一方、永年四国連絡を担ってきた宇高連絡船やホーバークラフトは、
大橋の開通と供にその役割を終えることになる。 
 その為岡山と宇野を結ぶ宇野線も、茶屋町までの間は瀬戸大橋を渡る
本四備讃線のアプローチ線として引き続き本四連絡の使命を担うものの、
茶屋町と宇野の間はワンマン運転のローカル線と落ちぶれてしまう。



 嘗て長距離列車などが頻繁に乗り入れた路線もすっかり寂れ、今では
朝夕こそ岡山・宇野の直通運転が有るものの、多くは茶屋町と宇野駅間
での折り返し運転である。

 沿線各駅には往時の名残の長いホームがそのまま残されているが、停
まる電車の多くは2両編成で、殆どが通勤通学の足としての利用ではこ
れで充分となってしまった。



 広大なヤードを擁した宇野駅も、連絡船が廃止された今は縮小され、
港からは後退して島式ホーム1面2線の小さな終着駅に再整備された。
広大な空き地と成った駅前では、今でも頻りに再開発が行われている。(続)





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玉野市電の誕生(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-31 | Weblog


 「備南電気鉄道株式会社」から「備南電気鉄道」の譲渡を受けた玉野
市は昭和31(1956)年3月24日「玉野市営電気鉄道」を発足させ、これ
まで通り鉄道の継続運行に乗り出した。
 市民からは「玉野市電」と呼ばれたが、「市電」と言っても所謂路面
電車ではなく、れっきとした地方鉄道法に基づく総延長4.7㎞の鉄道線だ。



 住民のニーズを満たせず乗客が増やせなかった前時代を教訓に、市は
積極的に乗客を増やすべく、次々と新駅を開業させている。
玉野保健所前、大聖寺前、西小浦、広潟などだ。
 路線は前の会社時代に玉から玉橋間0.2㎞が延伸されていたが、その
後も玉遊園地までの1.0㎞を延伸させ終点までを14分で結ぶようにした。



 更に運行本数を安定的に確保する為に、途中の古塩浜に列車の行違い
が出来る古塩浜信号所を開設した。またこの頃の宇野線電化に伴い宇野
駅改良工事が行なわれ、これに合わせ宇野駅ホームへの乗り入れも実現
させている。電車をやめ、気動車を導入する改善も行なった。



 このように当初玉野市は、駅の増設や路線の延長等、積極的な投資・
経営のテコ入れを行い経営の改善に努めてきた。その甲斐あって通学や
三井造船等への通勤などの需要に支えられていた。それでも経営は依然
として厳しく赤字続きで、収益を上げるまでには到らなかったようだ。



 追い打ちをかけるようにモータリゼーションの波が押し寄せ、道路整
備と供に周辺地域にバス路線網が敷かれ、マイカーが普及すると、鉄道
は持ち堪えることが出来なくなった。

 昭和47(1972)年3月31日全便無料のさよなら運転が行なわれ、市民
に惜しまれつつ翌日その短い歴史に幕を下ろした。(続)





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備南電気鉄道の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-28 | Weblog


 宇野線が開通し、宇野港が開かれ、国鉄の宇高航路に加え民間の貨物
フェリーも運行した。更には宇高国道フェリーの開通等で益々の繁栄を
見た、港町・宇野地域の交通を語る上で欠かせない鉄道がある。

 昭和28(1953)年に「備南電気鉄道株式会社」が、宇野駅から玉駅
間で開業させた「備南電気鉄道」の存在である



 宇野港が立地する玉野市の玉地区(当時は児島郡日比町玉)には、三
井物産・造船部が大正時代から立地していた。昭和に入ると、三井造船
株式会社(後に三井E&S造船)と商号を変え、太平洋戦争中には、海軍
の各種軍用艦の建造に携わっていて、国鉄宇野駅からは工場に向けて専
用の引込線が引かれていた。



 その後終戦を迎えると、戦前から行っていた艦艇事業は譲渡し撤退、
現在では船舶用ディーゼルエンジンといった船舶分野から、発電・化
学プラント等、エンジニアリング事業を手がけるようになるが、専用
引込線はそのまま放置されていた。



 備南鉄道はそこに着目、それを有効活用し、まずはレールを整備して
宇野~玉(3.5㎞)に旅客用鉄道路線を開業させた。
 将来的には玉から延伸し、渋川を経由して児島、更には水島まで達す
る計画であったが、会社は開業前から資金難に苦しめられていた。



 資金難であるが故に既存の専用線を活用して開業はしたものの、路線
は市街地を大きく迂回して敷設されていた為、残念ながら市民のニーズ
を満たすことが出来ず、乗客はじり貧である。



 当初はこの路線で営業利益を得て、それを投じて路線を延伸する計画
であったが、その目論見は見事に外れ、利益を上げるどころか赤字の連
続で、結果鉄道事業は玉野市に譲渡されることになる。
(写真:宇野線各駅の風景)(続)




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宇野港 栄華の時代(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-26 | Weblog


 国鉄の「宇高連絡航路」の盛況を受けて、昭和36(1961)年には、
民間の旅客フェリー「宇高国道フェリー」が新たに参入する。

 この時児島湾の干拓事業は既に竣工し、岡山市と香川県の高松市を結
ぶ「一級国道30号線」は開通していて、フェリーが瀬戸内海の海上部を
担う事で、岡山市内から高松市内まで自動車での移動が可能となった。



 フェリーは24時間運航で、「昼も夜も19分ごと、待たずに乗れる」
がキャッチコピーで、最盛時は68往復/24時間であった。
 就航する各船も豪華さを競い、テレビの搭載は当たり前、デッキに
噴水の装飾を施し、船内にはエスカレーターを導入したり、中には浴
室を備えた船まで現われた。



 一方開業60周年を迎えた宇野線には、特急・うずしおや、急行・砂丘
しんじ、寝台急行・鷲羽、瀬戸等が乗り入れていた。
 昭和47(1972)年3月15日、新大阪と岡山間に待望の山陽新幹線が
開通すると、「宇高連絡航路」には「海の急行便ホーバークラフト」が
投入される。これまでの連絡船が凡そ1時間かけていたところを、僅か
23分で駆け抜けるようになる。



 宇野港の整備も順調に推移し、昭和30(1955)年には第一突堤が完
成している。これにより8000トン級の船舶の接岸が可能となり、入港
船の延べ数は以後10年間で凡そ2.7倍となる急成長を見ることになる。



 新幹線開通と同年には、岡山から「特急・やくも」が山陽本線、伯備
線経由で一日4往復投入され、岡山から宇野を軸とする南北の「陰・陽
・四」の連絡幹線路が形成された。



 嘗て明治の先駆者達が、「宇野に港を築けば新たな交通の要衝になる」
と、築港に情熱を燃やした先見の明は、これで証明されることになる。(続)



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宇高連絡船(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-24 | Weblog
 岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」は、海上11.3海里
(21.0㎞)の鉄道連絡船である。明治42(1909)年に港が開港、翌年
宇野線が開通すると時を同じくして運航を始めている。
以来長年に渡り、本州と四国を結ぶ大動脈として機能してきた。



 宇野港は昭和5(1930)年2月7日に、県下では初めて「開港場」に指
定された。これは、通商・貿易の為に外国船に開放される港の事で、同
年の7月に中国大連間に定期航路が開設され「照國丸」が就航している。
 戦後の復員兵や引き揚げ者などの運搬では大活躍したが、次第に衰退
し後に撤退している。



 一方宇高航路は順調で、当初は玉藻丸や児島丸が他の航路から転属
され運行していた。玉藻丸には船内売店が開かれ、ビフテキ20銭、フ
ライ15銭、ビール24銭等、洋食が評判を呼んだという。
又国内航路では初めて船内にランプに変る電灯の照明が採用された。
戦後になると、紫雲丸型と呼ばれる新鋭船三隻も投入されている。



 昭和25(1950)年になると、連絡船は貨車に留まらず、本州と四国
を結ぶ夜行列車を客車ごと乗せるようになる。
(ただ、客車のスペースは6両分しか無かった。)
乗客は宇野と高松での深夜二度に渡る乗り換えがなくなり、眠っている
間に移動が出来、これは大好評であった。



 ところが昭和30(1955)年5月11日、紫雲丸が第三宇高丸と衝突し
沈没する。国鉄史上、「戦後最悪五大事故」の一つと言われる大事故を
引き起こしてしまった。
乗っていた修学旅行中の学童・生徒ら168人の死者を出す大惨事である。



 以後、旅客の安全を確保するため客車の航送は中止となった。
又これを契機として、永年燻り続けていた本四架橋(本州四国連絡橋)
の構想が、一気に具体化することになる。(続)





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鉄道開通の恩恵(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-21 | Weblog
 宇野新線が出来、宇野から高松間に宇高航路が開通すると、大幅に時
間が短縮され、利用者の利便は格段に向上した。
しかし嘗ては、この間の移動に数時間も要する大変な時代が有った。



 岡山に鉄道の駅が出来たものの、当時四国に渡る港は旭川左岸の三蟠
で、鉄道との繋がりは無く、何度も乗り継ぎを余儀なくされていた。
 要衝の地が新興の駅前に移りつつ有るとは言え、当時市内の交通の結
節点は、まだまだ旧城下町の京橋である。



 駅で降りた人々は、まず駅前で人力車を仕立てることになる。
京橋までは凡そ2.3㎞、歩けば30分余りかかるが、一人7銭の人力車な
ら半分ほどの時間で着いた。ここからは、旭川の船便に乗換える。



 京橋港から三播港までは、浅吃水特殊小型船(24トン)・旭丸が運
行していて、一人13銭である。
距離は凡そ9㎞、恐らく1時間も有れば着けたであろう。
ここには瀬戸内海を四国に向けて渡る大型汽船が待っている。



 就航するのは224トン、定員146人の玉藻丸で一日二往復である。
運賃は3等が43銭、2等が63銭、1等は80銭と伝えられている。
四国に上陸すると、再び一人10銭の人力車で、高松の駅に向かった。



 こういった状況下に宇野線・宇野港が出来、連絡船に直結することで、
所要時間は半減の3時間程に短縮された。
 これにより旭川の船便も、後に開通した三蟠鉄道(京橋近くの国清寺
~三蟠港)も、その役割をこのルートに委ねることとなる。



 『水島丸、紫雲丸、眉山丸、鷲羽丸などの連絡船名は宇野港のマラソ
ン桟橋とともに人々に親しまれた。利用者数は昭和18(1943)年には
300万人を超し、同33年には一日26回運航で年間に400万人を越す利用
であった。』(「岡山の交通」 昭和47年5月1日 日本文教出版)(続)




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宇野の築港(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-19 | Weblog
 瀬戸内海に面した宇野村は、江戸時代から開かれた古浜、広潟、新浜
等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程
の盛況であった。



 時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営
製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の
広がる当地も着目されていた。



 そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野
を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の
下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路
でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな
交通の要衝になる」と賞賛した。



 こうして宇野村に、宇野築港計画が持ち上がった。
この頃、岡山・宇野を結ぶ鉄道新線の計画も有り、当初は鉄道工事と同
時進行的に進める目論見であったが、戦局を理由に鉄道工事が一向に進
まず、築港も一時は県会で計画が否決されてしまう始末だった。



 それでも築港工事が始まったのは当時の知事の専決と伝えられている。
鉄道の着工より一年早い明治39(1906)年の事で、三カ年計画である。
 着工から三年で、四百トンクラスの桟橋が完成し、更に汽船が横付け
できる港が完成した。遅れていた鉄道の開通より半年早い竣工であった。



 そして明治43(1910)年、待望の宇野線も開通する。
時を合わせ、既に完成していた新港と、高松の間に宇高航路も開通し、
玉藻丸、児島丸が就航する。
一日八回の運航で所要時間は、上り1時間40分、下り1時間20分と伝
えられている。



 これにより岡山から宇野線、宇高航路を経て四国・高松に到る新たな
ルートが華々しく開業し、歴史にその一ページを刻むことになる。(続)




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