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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

玉野市電の岡山延伸計画(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-02 | Weblog


 玉野市電は、岡山方面への延長案も考えていたらしい。
宇野を出て広潟、田井、十禅寺、大藪、後閑と辿り、この先進路を児島
半島に取る。福浦、波知、八浜、見石、碁石、松尾、甲浦からは児島湖
の締め切り堤防の上を通り、岡山港、藤田、福田、青江、奥田を経て岡
山に到る全長22.2㎞の路線である。



 地図を見ると良く分かるが、当時の宇野線は干拓される前の児島湾の
海岸線をなぞるように、妹尾と八浜の間は「逆コの字」型に大きな弧を
描くように線路が敷かれている。
 玉野市電の岡山延伸計画は、児島半島経由で、児島湾の締め切り堤防
上を真っ直ぐ北上しょうとする直線的なもので、宇野線よりも大幅な時
間短縮が期待されていた。



 一方、玉野市電が開通する少し前に、岡山市内には岡山臨港鉄道が、
大元から岡山港間で開通(昭和26年~昭和59年)している。
同鉄道も将来的には延伸し、児島湾の締め切り堤防上に線路を通す構
想を持っていた。

 玉野市電の計画は、岡山市内を走る岡山港から先は、この臨港鉄道の
ルートとほぼ重複する。相互乗り入れを考えていたのかも知れないが、
残念ながら何れの案も実現には到らなかった。



 「すこやかセンター」には、玉野市電で活躍したモハ103号機が静態
保存されている。説明書きによると鉄道の開通から19年間、宇高連絡
線の玄関口宇野駅と三井造船の事業所がある玉地区を結んで走ってい
た車輌という。



 鉄道の廃線に伴い昭和40(1965)年、瀬戸内海を渡り香川県の高松
琴平電鉄に譲渡され、同社のエンブレムを付けた760号機となった。
 琴電でも役目を全うした車輌は、その後の平成18(2006)年に、玉
野市の有志市民によって里帰りが実現、終の棲家としてこの地に安息の
場を得たという。(続)





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すこやかセンター(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-30 | Weblog
 玉野市電には終着駅・玉遊園地前から先更なる延伸計画、渋川方面へ
の案があった。この先奥玉、志池(玉原)、和田、日比小学校前、日比、
波峠、日比製錬所前に各駅を設け、渋川海岸に到るルートだ。
全長11.6㎞を、凡そ25分で結ぼうと言う計画である。



 沿線には造船と並んで玉野市の有力な企業である、明治26(1893)
年創業の日比製錬所(現在の日比製煉株式会社)が有り、終点の渋川
には県下有数な渋川海水浴場が有る。
 この瀬戸内海に沿った地域は当時から国鉄の空白地帯で、将来的に
は下津井を経て、倉敷に近い水島方面までの延長が考えられていた。



 終着駅の名前の由来となった北山児童遊園地を後に50m程進むと県道
とは別れ奥玉地区に向かう広々とした道が分岐している。
 歩道付きの道路の両側は新開地のようで、商業施設や工場や事業者を
見ることは無いが、整然と区画された地に住宅が建て込んでいる。



 延伸計画は頓挫したが、もしかしたら市電はこのあたりを通っていた
のかもしれない。
そんな道を200m程進むと、左側に煉瓦色の大きな建物が見えてくる。
これは正式名称を「総合保健福祉センター」と言う施設だが、「すこや
かセンター」が通り名になっている。



 センターには、地域循環バスである「シーバス」が乗り入れていて、
玄関前に停留所が有り、運賃一律100円で誰でも利用することが出来る。
しかし本数は極めて少ないので、利用のさいは事前に調べることをお勧
めする。



 このセンターの南側にある駐車場の片隅に、屋根付きの建屋が建あり、
その下に玉野市電の車輌が1両静態保存されているという。

 廃線跡歩きは終わったが、折角なので、終着駅・玉遊園地前から、少
し足を延ばし、それを見にここまでやってきた。(続)





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終点・玉遊園地前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-28 | Weblog


 玉野市電の走る「玉野」の地名は、玉比咩神社の巨大な「立岩」が、
玉のようであったため「玉石」と名付けられた。
これが由来となったとの説も有るらしい。
嘗て海の入り江に屹立していた御神体は、今では直接触れることが出来、
パワースポットとしても知られている。



 相変わらず線路跡は駐車場になっているが、滅多に車の出入りも無く
歩くには安心だ。玉比神咩社前駅から300m程の所に、神社前駅とは同
日開業した「玉小学校前駅」が有った。
小学校は右手に見えるが、駅がどの辺りに有ったのか、周辺が余りにも
変りすぎ今となっては特定出来ないらしい。
距離的にはお堂の辺りかと思うが、それらしき痕跡は何もない。



 この先から廃線跡の駐車場は終わり、道幅が少し狭まって歩行者自転
車の専用道路に変る。前方には、中国電力ネットワーク(株)日比変電
所の巨大な送電線の鉄塔が見えてくる。
線路跡の専用道路は、川幅の半分ほどを占め、変電所の塀に沿って少し
左にカーブしながら延びている。



 変電所を過ぎると、前方に小さな児童公園が見えてくる。
と言っても特別な遊具が有るわけでも無く、何本かの植木と、金網フェ
ンスに囲まれただけのごく普通のありふれた広場である。
玉小学校前駅からは240mしか離れていない場所で、この辺りが玉野市
電の終点であった。



 道路脇に、「すこやかセンター」入口を示す道路標識があり、終着駅
の玉遊園地前駅はこの少し手前辺りに有ったと言う。
駅名はこの北山児童公園の存在に由来しているが、とても駅名になるほ
どの大層な遊園地ではないが、玉野市条例ではこうした公園は「児童遊
園地」と言うのが正式名らしい。(続)





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玉比咩神社前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-25 | Weblog
 雑誌等では、「川の中を走る電車」等と紹介される事も有ったらしい。
玉の町中を流れる白砂川は、大聖寺駅辺りで海に注いでいて、玉野市電
は大聖寺前駅を過ぎるとこの川に沿って玉駅に向かっている。



 玉駅から玉遊園地前駅まで路線が延伸される事になったが、周辺は既
に市街地が形成されて線路を敷くスペースの確保が出来なかったようだ。
結局、川の上に橋脚を建て、線路はその上に敷かれることになった。



 玉駅から僅か430mで玉比咩(たまひめ)神社前駅に到着する。
昭和35(1960)年8月3日の開業で、文字通り神社の真ん前の駅である。
当時の駅は神社前の交差点、国道430号線を跨ぐ横断歩道橋の手前にあ
ったと言う。



 玉比咩神社の定かな創建年は不明だが、古くから児島郡に坐する神と
して知られていた。
御祭神は、豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)が祀られている。江戸時代には
歴代藩主の崇敬篤く庇護を受け、度々社殿の修復が行われて来た。
郷土の守護神として崇敬を集め、特に年末年始には地元民が多く詣でる
という。



 神社の境内に巨大な岩が奉られている。
堀を巡らせた中央に立つ岩は、高さは10.6m(ビル3階分の高さ)、周
囲の長さは29.4mもあり、立っている様子から「立石」と呼ばれ御神体
とされている。
嘗てこの辺り一帯がまだ海で入り江だった頃、そこに立っていたそうだ。



 神社は造船の町らしく「支え綱」で作成した「支綱(しこう)お守」
りが人気という。進水式で満船飾(軍艦の場合は満艦飾、一般の船舶の
場合はこう言うらしい)に飾られた新造船は、支え綱を斧で切断され初
めて海に浮ぶ。
その時使われた支綱を神社でご祈祷し、お守りにしたものらしい。(続)





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繁華街の玄関 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-23 | Weblog
 その後玉野市電になると、慢性赤字の経営を改善するため二度にわた
り路線を延長してきた。最初は終点だった三井造船所前駅(当初は玉駅)
から商店街のある玉橋(当初は玉駅)の区間である。



 延伸された鉄道は、三井造船場前駅を出ると、大きく右にカーブして
進路を北に向け、終着駅・玉橋駅(開業すると直ぐに玉駅に駅名変更)
に向かっていた。当時の駅は、現在両備バス・玉橋のバス停があり、玉
商店街のイベント広場に成っている場所にあったらしい。



 二度目は玉駅(計画時は玉橋駅)から更に先の玉遊園地前駅の区間で、
これはさらに先まで延伸する計画の布石だったと思われる。
 新たな終点までは、軌道を敷く場所がなかったのか、白砂川に沿って、
川の中に橋脚を設けてその上を列車が走ることに成った。
現在市営の駐車場になっている場所である。



 玉橋駅の右側には、玉商店街が延びている。
造船業が活気を呈していた時代は大いに賑わったらしいが、昭和50年
代以降の造船不況をまともに受けて、未だにそこから抜け出せなかっ
たのか、シャッター商店街と化している。



 アーケードには、「歓迎 海上自衛隊」とかかれた看板も掲げられて
いて、三井造船場では自衛艦を製造し、メンテナンス等で海上自衛隊
との交流があり、繁盛した時期もあったことを覗わせている。



 商店街のアーケードは、開閉式であったようだ。
今では開け放たれた通りの上に、山形の錆びた鉄骨が立ち並び、中央に
下げられたランプ型の街灯が、見事な造形美をみせており、レトロ感が
溢れている。皮肉なもので、近頃ではその寂れたレトロ感が「映える」
と言われ、人気だそうだ。(続)





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企業城下町 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-21 | Weblog
 大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡るが、今日の専用道路
の橋脚は、列車が走っていた当時のものがそのまま使われているそうだ。
ここから線路跡は造船所と白砂川に挟まれた場所を、開業当初の終着駅
に向かっていく。



 川越しの右側、道路沿いに見えるのが玉野市の「総合体育館と児童館」
である。ここは造船所創業時に、工場と供に建設された玉社宅が有った場
所で、廃止になった跡地に、昭和58(1983)年に建てられた施設である。



 左前方には、企業立病院として大正8(1919)年に設立された玉野三
井病院が見えている。近年宇野地区に拠点を置く玉野市民病院と経営統
合し、「地方独立行政法人 玉野医療センター」となっている。



 大聖寺駅からは200m、右手に商業施設が見える辺りに創業当初の終
着駅・玉駅が有った。当時は車庫や鉄道会社の事務所などがあったらし
いが、跡地は三井造船の敷地となった。昭和30(1955)年に、鉄道が
玉の繁華街まで延伸すると、三井造船前駅と改名されている。



 玉野市は、創業時は玉造船所といった三井造船の創業の地で、企業城
下町である。造船所では、大型の旅客船を製造する他、戦時中には日本
海軍の艦船、現在では自衛隊の使う自衛艦等を手がける大規模な工場で、
市内には造船所の下請けなど中小の関連会社が多くあったらしい。



 工場前に広がるこの辺りが玉地区の中心的な場所で、周辺には社宅が
あり下宿屋があり、近くには繁華な商店街や各種商店が集積されていた。
慢性的な赤字を抱える鉄道は、この繁華な町に着目し、開通から2年後、
僅か170m程の延伸ではあるが、人々で賑わう玉橋に終着駅を移すこと
になる。(続)





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大聖寺前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-18 | Weblog


 藤井海岸駅の向こうに、大仙山トンネルが見えている。
大仙山(104.0m)の僅かばかりの山裾に、やっとの思いで穿いたよう
なトンネルだ。沿線では三つ目で、一番短くて全長は60mであるから、
これくらいなら切り通しでも良かったのにと思えてくる。



 馬蹄形の入口を入ると、出口の方が明るく見えていて、歩いていても
すぐに出てしまう。出て振り返ると、その口は補修されたのか四角くな
っていて、入り口は丸なのに出口は四角、不思議なトンネルである。
抜けるといきなり目の前に、異様な光景が展開する。



 赤い壁の建物。その奥に厳めしい護岸壁。その上に建つ巨大な黒瓦の
建物。更にそれに覆い被さるように聳える赤白に塗り分けられた巨大な
クレーン。
 実はこの三つの建造物は、全く独立して離れてあるのだが、ここから
眺めると重なって、まるで要塞のような不思議な景色に見えてくる。



 廃線跡はここで広い海岸通りを越し、その先三井造船の敷地に沿って
西進して行く。工場に向かう引込線はどの辺りに有ったのか、痕跡でも
有るかと思ったが何も無い。
この道路の辺りが、玉野保健所前駅から260m離れた大聖寺駅らしい。



 寺は、「日蓮宗 身延別院・大聖寺」が正式な名称である。
その寺名が刻まれた石柱があり、ホームは石柱のすぐ左に有ったという。
駅は昭和33(1958)年7月20の開業で、寺への参道入口となっていた。


 
 寺の創立は昭和21(1946)年だから、鉄道の開通の7年前で比較的
新しい寺院である。長い階段を上がった小高い山の上にあり、眼下に
玉地区の工場などを見下ろす絶景のスポットらしい。
 毎日夕方6時に打ち鳴らされる「寺の鐘」は、今や地区の風物詩に
なっているという。(続)




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藤井海岸駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-16 | Weblog
 鉄道廃線跡は、玉野市民病院前駅を出て古塩浜信号場にやって来る。
玉遊園地行きの電車は左の行違い線に入り一旦停車、宇野駅行きの電車
を待ち、ここでタブレットを交換し行違う。
 再び動き始めた電車は、やや上り勾配に成りながら正面に見える小さ
な山・中山(60.2m)に向かう。



 暫く進むと、右側に宇野保育園と宇野小学校があり、その先で中山ト
ンネルに入る。
長さは157m、沿線では二つ目のトンネルで、二番目に長いトンネルだ。
緩く左カーブしながらトンネルを抜け、次の藤井海岸駅を目指す。



 駅は古塩浜信号所から700m程離れている。
併走してきた道路は直進し、線路は右にカーブするが、その分かれて行
く辺りに有ったと思われる。道路を見ると遙か先に、海に面して建つ桂
スチール工場の大きなクレーンが見えている。



 海岸駅とは言っても、現在ではここから海岸までは直線で300m程離
れている。昔はこの駅の先に見える交差点辺りまで海が入りこみ、海岸
だったと言い、鉄道は右に聳える大仙山(104.0m)の山裾の、固い地
盤の上に敷かれていたようだ。



 この辺りは埋め立てられた地であろうか、標高で言えば2.5m前後の
平地に住宅が密集している。
廃線跡は山裾に沿うように右にカーブしながら進む。
 正面の民家越しには、三井造船所(現・三井E&S造船)の巨大なク
レーンも見えてくるが、それは如何にも玉野らしい光景だ。



 前方に、線路跡を斜めに横断する道路が見えてくると、この辺りが藤
井海岸駅から460m離れた玉野保健所前駅跡である。 
近年までホームと繋がったアパートの階段が残されていたらしいが、今
建物は取り壊されている。(続)





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古塩浜信号所 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-14 | Weblog


 大正6(1917)年、児島郡日比町の玉地区に三井物産造船部(三井
造船の前身)が創業し、工場建設に合わせ、玉、和田地区に社宅が建
設された。その後も工場拡張に伴い、奥玉、深井、渋川、利生にも社
宅が造られ、玉地区の人口は急増したが、造船業は昭和50年代に入る
と深刻な不況に陥っている。



 一方宇野地区は、明治末期の宇野線の開通、宇野港の開港、宇高連絡
船の就航以来、本州と四国を結ぶ玄関口として足元を固め、着実な発展
を遂げている。備南鉄道から玉野市電に引き継がれたとは言え、こうし
た背景の中鉄道は、二大地区を結ぶ市民の足として期待されてきた。



 ところが鉄道が開通した時代、街の中心は既に玉地区から、宇野地区
に移りつつあった。その繁華になった町中には、線路を通せなかったの
である。町を避けるように大きく北に迂回し南下するルートで開通した。
しかも社宅のある和田地区とは(計画は有ったが)結ばれていなかった。



 市は移管された後、乗客増を狙い、幾つか駅を開業させてきた。
又列車の行き違いのため昭和31(1956)年に、古塩浜に信号所を開設
した。単線軌道にあって電車の行違いをスムーズに行うための場所で、
乗客の取扱いは無く、列車同志のタブレット交換が行われていた。



 古塩浜信号所は、玉野市役所前駅から100m程離れた場所にあった。
今その痕跡は、廃線跡に立てられた白い蔵が、線路跡に対し斜めに建て
られていることで知ることが出来る。



 駅数を増やし、安定運行のため信号所を設け、僅かながら路線も延伸
させてきた。それでも乗客は伸び悩み、営業収支は赤字続きで、黒字に
転じることは無かったという。中心市街地を通せない鉄道の経路を考え
れば、伸び悩みも仕方無かったのであろう。(続)




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宇野地区の中心地 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-11 | Weblog
 天狗山トンネルを抜け標高を下げながら100m程行くと、左側にベン
チが置かれた休憩スペースがあった。
 起点から1400m地点に置かれ、昭和34(1959)年6月15日に開業し
た西小浦駅跡である。玉野高校前駅からは440mしか離れていない。



 剪定されているので木の種類は分からないが、線路跡は並木道だ。
廃線跡の両側には住宅が建ち並び、線路跡との間には生活道路が通され、
それに挟まれるように延びている。



 途中で町中を貫く国道30号線を越えるが、この辺りが宇野地区の中
心市街地に近く、大型の商業施設や市役所などが立地している。
 左に向かえば800m程で、宇野駅前、宇野港前の港エリアだ。



 国道を越え150m程行くと右側に、玉野市民病院の船形をした建物が
見えてくる。その前に左右に走る狭い道路が通り、その手前に市役所前
駅があったらしい。西小浦駅からは390mしか離れていないと言うから、
丁度住宅団地前の小公園の辺りらしい。



 ここまで廃線跡を辿ってくると、一寸した疑問が持ち上がってくる。
人口の多い中心市街地を通過すれば良さそうなものを、そうでもなさそ
うな所を大回りしている。



 宇野駅から北に向かった線路跡は、宇野中の辺りで大きく半円を描き
カーブして、この辺りでやや南寄りに進路を変え進むようになる。
 しかし元々は造船所の引込線で、駅ホームへの乗り入れは必要無いの
だから、駅手前で南進しながら本線と分かれ分岐して、国道30号線に沿
って西進すればここに到る筈だ。


 
 そこからカーブして南に向かえば、距離にすれば半分ほどで済むのに、
なぜこんな大回をする軌跡なのか、何とも不思議に思えてくる。
しかし、そこには訳がありそうだ。(続)




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