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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

楠葉台場跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-14 | Weblog


 府道の京都守口線を300m程行くと、左側に広大な緑地があり、
隅に「楠葉台場跡(くずはだいばあと)」の案内板が立っていた。
国指定史跡で、跡地を樟葉台場史跡跡公園として整備した場所だ。 



 台場とは江戸幕府が築造した大砲を備えた要塞のこと。
説明によると、幕末期「開国を求める異国船が突如、大阪湾に現われた
ことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を遡ろ
うとする異国船からの防備」のため築かれたと言う。



 場所は八幡市の男山の西に位置し、西側には淀川が流れている。
当時の敷地は現代の公園から西にも拡がり、府道や京阪の軌道敷を越え、
淀川の岸辺までをしめていた。「水堀を備えた西洋の築城方式である稜
堡式(りょうほしき)砲台が採用され、面積は約3万8千平方メートルで
あり、火薬庫の他大砲3門を河口方向の南に向けて備え、舟番所も設け
られた。」



 幕末期には欧米列強の外国船への備えから、幕府は多くの海岸に台場
を造った。有名なところでは、「品川台場」があり、今日では通称「お
台場」として知られている。
 楠葉の台場は海辺ではなく河岸に造られているが、これは一対の備え
として造られた。対岸の高浜台場(大阪府島本町)とここの二カ所のみ
で大層珍しいという。



 砲台の築造によりこれまで淀川河岸を通っていた京街道は、台場の中
を通るように付け替えられ番所が設けられた。このことから、尊皇攘夷
派の浪士らが京の京に入り込まないよう取り締まる目的も有ったと言わ
れている。



 その割には北側の備えは脆弱で、鳥羽伏見の戦いでは淀川左岸を進軍
して来た新政府軍に占領されている。(続)

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摂津の国へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-12 | Weblog


 売春防止法の施行(昭和32年4月1日、公布は前年の5月24日)に
より、翌年赤線が廃止と成り嘗ての花街から賑わいの火が消えた。
多くの娼妓や芸妓を抱えた八幡市橋本中ノ町の「橋本遊廓街」が最盛
期の頃は、京阪線の橋本駅は夜が更けるほどに乗客が増え、終電とも
なると大層な混雑を見せたと言われている。



 旧遊廓の町並を後に、小金川の町を抜け府道の手前で左に折れ、京阪
線の線路を越える。左奥が橋本駅で、かつて駅前には百人以上収容でき
る歌舞練場があったらしいが、廃止後は老朽が進み、近年駅前の再開発
で解体し取り壊されたという。



 広々とした道が右に大きくカーブすると左手に「八幡市橋本公民館」
が建っている。八幡は京都・大阪圏のベッドタウンとして、昭和40年代
後半の男山団地開発に引き続き、橋本地区でも大規模な住宅団地の開発
が行なわれ、人口の急激な増加をみたという。
その為昭和50年代半ばに建てられた施設らしく、地区民の活動の場だけ
には留まらず、市の支庁の役割も担っているようだ。



 駅前からこの辺りにかけては、再開発区域なのか工事中の箇所や空き
地が目立ち、その間を広々とした新しい道が通っている。
道が右にカーブすると橋本駅南の府道交差点で、その手前辺りで東海道
五十七次は、山城国から街道最後の摂津国、現在で言うところの大阪府
枚方市へと入ってきた。



 とは言え、残念ながら旧道は途絶え、真新しい新道がその面影をすっ
かり消している。スーパーの前を左にカーブすると右側は京阪の線路と
淀川の堤防で、鋪装されガードレールに守られた安全な道が延びている。(続)

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宇野 港と海の復権(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-09 | Weblog


 近年「海の復権」をテーマに、三年に一度、瀬戸内海の2つの港と12
の島を会場に、現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開かれている。

 今日ではテレビや雑誌等でも取り上げられ、広く海外にも知られるよ
うになり、期間中のみならず、会期後も会場となった島などに多くの観
光客が訪れる様になった。



 港会場は宇野港と高松港周辺で、12の島というのは直島、 豊島、女
木島、男木島、小豆島、大島、犬島と、春のみ開催の沙弥島、秋のみ開
催の本島、高見島、粟島、伊吹島である。
何れも岡山と香川の沖合、瀬戸内海に浮ぶ小島で、宇野港とはフェリー
で結ばれている。



 「美しい自然と人間が交錯し、交響してきた瀬戸内の島々に活力を取
り戻し、瀬戸内が地球上のすべての地域の「希望の海」となることを目
指しています。(公式HP)」

 一時寂れた宇野の町にも、カジュアルなカフェやゲストハウスが建ち、
町中でも芸術作品が身近に見られるようになり、宇野駅にも外国語の案
内が用意されるように成った。



 多くの訪問客は、大きなトランクを下げ、岡山から宇野線に乗ってや
って来る。ところが瀬戸大橋線の開通で、同線の茶屋町~宇野間は、完
全なローカル線と化し、直通する電車は少ない。多くは茶屋町で、同じ
ホームとは言え乗り換えとなる。
 終点の宇野駅で改札を出れば、フェリー乗り場までは国道を越えて凡
そ500m程を歩くことになる。



 芸術祭の開催は、鉄道とフェリーを再び活気付けつつあるようだ。
地元の商店街にも足を運んで欲しいものだが、客は大きなトランクを引
きずって町歩きなどはせず、フェリー乗り場に直行する。
 
 荷物の移送サービスでもあれば、訪れる人々も身軽な町歩が楽しめ、
商店街にも活気が戻るのではないか、とその姿を見ては思う。



 フェリーの減便で苦境の船会社等が、こんなサービスを始めれば良い
のにと何時も思う。そしてJRも、宇野線の岡山からの直通運転を今一
度見直してほしい。

 宇野復権に向け官民一体で、まだまだやれることはあるのではないか、
こんなことを廃線を歩きながら考え、願っていた。(玉野市電廃線跡を歩く・完)

 来週から「東海道五十七あるき旅・摂津国」編が始まります。
東海道歩きもいよいよ大詰め、上がりの大阪・高麗橋を目指します。




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瀬戸大橋の影響(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-07 | Weblog


 JR宇野線、宇高航路、宇野の町までを疲弊した姿に変えてしまった
瀬戸大橋は、昭和63(1988)年4月10日に華々しく開通して以来、35
年以上が経過した。
 上部は瀬戸中央自動車道が、下部には本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)
が走り、将来は新幹線の敷設を見据えた橋だ。



 フェリーが1時間掛けていた海峡部は、新たに運行を始めたJR四国
の快速マリンライナーなら僅か数分を要するだけだ。
岡山と高松間は1時間余りに短縮された。

 嘗て岡山市内から旭川を下っていた時代は、数時間を要していた。
その後の国鉄宇野線と宇高連絡船の開通で所要時間が半減された。
橋の開通はそれ以来の大革新となっていた。



 橋が開通した初年度、鉄道利用者は連絡船時代の同期比で凡そ2.8倍
に急増し、本州から四国へ渡る人々の流れを大きく変えてしまった。
 岡山と香川は完全に通勤・通学圏に入り、瀬戸内経済圏の相互の結び
つきは強まり、両地域はじわじわと変容の波にさらされる事になる。



 「夢の架け橋」と持て囃された橋ではあるが、当初高速道路の通行料
金は馬鹿高く、常軌を逸した設定との批判が殺到し、長期に渡って利用
が低迷した。
 長距離を走るトラック等は、乗船中の1時間は休憩が出来、料金も安
いとしてフェリーを使い続け、橋を渡る高速を避けていた。



 ところがその後は料金が段階的に引き下げられ、いまでは開業当初の
1/3程度になると、流石にフェリーでは太刀打ちできず、利用者はジ
リ貧状態となりで、衰退の道を辿ることになる。

 ただ大橋は風には弱く、通行止めになる事もあり、それの代替として
の機能は残されたものの、これだけでは経営基盤は安定しなかった。(続)





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宇野港界隈(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-05 | Weblog
 玉野市電廃線跡を歩き終え、「すこやかセンター」に立ち寄り、そこ
から地域循環シーバス(運賃一律100円)に乗り、宇野駅前の一つ手前、
旭橋通り停留所で降り、宇野港近くまで戻ってきた。



 この辺りには昔四国に渡る折、フェリー待ちで何度も訪れている。
当時は雑然とした町並で、その印象が残っていたが、今では大型の商
業施設が立地し、海岸には小公園が造られ小綺麗な町並で、往時とは
随分と変わってしまっている。

 嘗て連絡船とフェリーが華やかなりし頃、専用駐車場に入りきらな
い乗船待ちの乗用車やトラックが、道路まで溢れかえっていた時代が
有った。



 掛けっぱなしのエンジン音で辺りは騒然とし、手持ち無沙汰の貨物輸
送のドライバーは顔見知りも多いのか、彼方此方で、固まり談笑する姿
が見られたものだ。
 手に手にタバコだから、辺りには紫煙が滞留し、今では考えられない
風景が展開していた。



 国道30号線(97.4㎞)は、岡山市の大供交差点と高松市の中新町交差
点を結んでいる。その内岡山県の宇野と香川県の高松の間、瀬戸内海を
渡る海上分21㎞は、宇高航路が車輌の運搬を担っていた。

 車輌の運搬には、四国フェリー、本四フェリー、宇高国道フェリーの
民間三社が参入し、熾烈な競争をしながらも、押し寄せる車を終夜運行
で捌いていた。



 一方JR宇野線からの乗換え客を、一手に引き受けていたのが国鉄の
宇高連絡船である。

 こうしてこの港には人や車が集まり、この辺りの個人商店も、国道を
隔てた築港商店街(築港銀座)等も、その恩恵を一手に引き受けていた。



 そんな繁栄を一変させたのが、瀬戸大橋の開通で、人や物の流れを完
全に変えてしまった。フェリーの便数は日ごとに激減し、乗り場と広大
な駐車場は無用の長物となり、今では縮小、或は閉鎖された。
こうして何時しか商店街からも人が消えていった。(続)





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玉野市電の岡山延伸計画(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-05-02 | Weblog


 玉野市電は、岡山方面への延長案も考えていたらしい。
宇野を出て広潟、田井、十禅寺、大藪、後閑と辿り、この先進路を児島
半島に取る。福浦、波知、八浜、見石、碁石、松尾、甲浦からは児島湖
の締め切り堤防の上を通り、岡山港、藤田、福田、青江、奥田を経て岡
山に到る全長22.2㎞の路線である。



 地図を見ると良く分かるが、当時の宇野線は干拓される前の児島湾の
海岸線をなぞるように、妹尾と八浜の間は「逆コの字」型に大きな弧を
描くように線路が敷かれている。
 玉野市電の岡山延伸計画は、児島半島経由で、児島湾の締め切り堤防
上を真っ直ぐ北上しょうとする直線的なもので、宇野線よりも大幅な時
間短縮が期待されていた。



 一方、玉野市電が開通する少し前に、岡山市内には岡山臨港鉄道が、
大元から岡山港間で開通(昭和26年~昭和59年)している。
同鉄道も将来的には延伸し、児島湾の締め切り堤防上に線路を通す構
想を持っていた。

 玉野市電の計画は、岡山市内を走る岡山港から先は、この臨港鉄道の
ルートとほぼ重複する。相互乗り入れを考えていたのかも知れないが、
残念ながら何れの案も実現には到らなかった。



 「すこやかセンター」には、玉野市電で活躍したモハ103号機が静態
保存されている。説明書きによると鉄道の開通から19年間、宇高連絡
線の玄関口宇野駅と三井造船の事業所がある玉地区を結んで走ってい
た車輌という。



 鉄道の廃線に伴い昭和40(1965)年、瀬戸内海を渡り香川県の高松
琴平電鉄に譲渡され、同社のエンブレムを付けた760号機となった。
 琴電でも役目を全うした車輌は、その後の平成18(2006)年に、玉
野市の有志市民によって里帰りが実現、終の棲家としてこの地に安息の
場を得たという。(続)





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すこやかセンター(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-30 | Weblog
 玉野市電には終着駅・玉遊園地前から先更なる延伸計画、渋川方面へ
の案があった。この先奥玉、志池(玉原)、和田、日比小学校前、日比、
波峠、日比製錬所前に各駅を設け、渋川海岸に到るルートだ。
全長11.6㎞を、凡そ25分で結ぼうと言う計画である。



 沿線には造船と並んで玉野市の有力な企業である、明治26(1893)
年創業の日比製錬所(現在の日比製煉株式会社)が有り、終点の渋川
には県下有数な渋川海水浴場が有る。
 この瀬戸内海に沿った地域は当時から国鉄の空白地帯で、将来的に
は下津井を経て、倉敷に近い水島方面までの延長が考えられていた。



 終着駅の名前の由来となった北山児童遊園地を後に50m程進むと県道
とは別れ奥玉地区に向かう広々とした道が分岐している。
 歩道付きの道路の両側は新開地のようで、商業施設や工場や事業者を
見ることは無いが、整然と区画された地に住宅が建て込んでいる。



 延伸計画は頓挫したが、もしかしたら市電はこのあたりを通っていた
のかもしれない。
そんな道を200m程進むと、左側に煉瓦色の大きな建物が見えてくる。
これは正式名称を「総合保健福祉センター」と言う施設だが、「すこや
かセンター」が通り名になっている。



 センターには、地域循環バスである「シーバス」が乗り入れていて、
玄関前に停留所が有り、運賃一律100円で誰でも利用することが出来る。
しかし本数は極めて少ないので、利用のさいは事前に調べることをお勧
めする。



 このセンターの南側にある駐車場の片隅に、屋根付きの建屋が建あり、
その下に玉野市電の車輌が1両静態保存されているという。

 廃線跡歩きは終わったが、折角なので、終着駅・玉遊園地前から、少
し足を延ばし、それを見にここまでやってきた。(続)





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終点・玉遊園地前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-28 | Weblog


 玉野市電の走る「玉野」の地名は、玉比咩神社の巨大な「立岩」が、
玉のようであったため「玉石」と名付けられた。
これが由来となったとの説も有るらしい。
嘗て海の入り江に屹立していた御神体は、今では直接触れることが出来、
パワースポットとしても知られている。



 相変わらず線路跡は駐車場になっているが、滅多に車の出入りも無く
歩くには安心だ。玉比神咩社前駅から300m程の所に、神社前駅とは同
日開業した「玉小学校前駅」が有った。
小学校は右手に見えるが、駅がどの辺りに有ったのか、周辺が余りにも
変りすぎ今となっては特定出来ないらしい。
距離的にはお堂の辺りかと思うが、それらしき痕跡は何もない。



 この先から廃線跡の駐車場は終わり、道幅が少し狭まって歩行者自転
車の専用道路に変る。前方には、中国電力ネットワーク(株)日比変電
所の巨大な送電線の鉄塔が見えてくる。
線路跡の専用道路は、川幅の半分ほどを占め、変電所の塀に沿って少し
左にカーブしながら延びている。



 変電所を過ぎると、前方に小さな児童公園が見えてくる。
と言っても特別な遊具が有るわけでも無く、何本かの植木と、金網フェ
ンスに囲まれただけのごく普通のありふれた広場である。
玉小学校前駅からは240mしか離れていない場所で、この辺りが玉野市
電の終点であった。



 道路脇に、「すこやかセンター」入口を示す道路標識があり、終着駅
の玉遊園地前駅はこの少し手前辺りに有ったと言う。
駅名はこの北山児童公園の存在に由来しているが、とても駅名になるほ
どの大層な遊園地ではないが、玉野市条例ではこうした公園は「児童遊
園地」と言うのが正式名らしい。(続)





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玉比咩神社前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-25 | Weblog
 雑誌等では、「川の中を走る電車」等と紹介される事も有ったらしい。
玉の町中を流れる白砂川は、大聖寺駅辺りで海に注いでいて、玉野市電
は大聖寺前駅を過ぎるとこの川に沿って玉駅に向かっている。



 玉駅から玉遊園地前駅まで路線が延伸される事になったが、周辺は既
に市街地が形成されて線路を敷くスペースの確保が出来なかったようだ。
結局、川の上に橋脚を建て、線路はその上に敷かれることになった。



 玉駅から僅か430mで玉比咩(たまひめ)神社前駅に到着する。
昭和35(1960)年8月3日の開業で、文字通り神社の真ん前の駅である。
当時の駅は神社前の交差点、国道430号線を跨ぐ横断歩道橋の手前にあ
ったと言う。



 玉比咩神社の定かな創建年は不明だが、古くから児島郡に坐する神と
して知られていた。
御祭神は、豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)が祀られている。江戸時代には
歴代藩主の崇敬篤く庇護を受け、度々社殿の修復が行われて来た。
郷土の守護神として崇敬を集め、特に年末年始には地元民が多く詣でる
という。



 神社の境内に巨大な岩が奉られている。
堀を巡らせた中央に立つ岩は、高さは10.6m(ビル3階分の高さ)、周
囲の長さは29.4mもあり、立っている様子から「立石」と呼ばれ御神体
とされている。
嘗てこの辺り一帯がまだ海で入り江だった頃、そこに立っていたそうだ。



 神社は造船の町らしく「支え綱」で作成した「支綱(しこう)お守」
りが人気という。進水式で満船飾(軍艦の場合は満艦飾、一般の船舶の
場合はこう言うらしい)に飾られた新造船は、支え綱を斧で切断され初
めて海に浮ぶ。
その時使われた支綱を神社でご祈祷し、お守りにしたものらしい。(続)





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繁華街の玄関 (玉野市電廃線跡を歩く)

2025-04-23 | Weblog
 その後玉野市電になると、慢性赤字の経営を改善するため二度にわた
り路線を延長してきた。最初は終点だった三井造船所前駅(当初は玉駅)
から商店街のある玉橋(当初は玉駅)の区間である。



 延伸された鉄道は、三井造船場前駅を出ると、大きく右にカーブして
進路を北に向け、終着駅・玉橋駅(開業すると直ぐに玉駅に駅名変更)
に向かっていた。当時の駅は、現在両備バス・玉橋のバス停があり、玉
商店街のイベント広場に成っている場所にあったらしい。



 二度目は玉駅(計画時は玉橋駅)から更に先の玉遊園地前駅の区間で、
これはさらに先まで延伸する計画の布石だったと思われる。
 新たな終点までは、軌道を敷く場所がなかったのか、白砂川に沿って、
川の中に橋脚を設けてその上を列車が走ることに成った。
現在市営の駐車場になっている場所である。



 玉橋駅の右側には、玉商店街が延びている。
造船業が活気を呈していた時代は大いに賑わったらしいが、昭和50年
代以降の造船不況をまともに受けて、未だにそこから抜け出せなかっ
たのか、シャッター商店街と化している。



 アーケードには、「歓迎 海上自衛隊」とかかれた看板も掲げられて
いて、三井造船場では自衛艦を製造し、メンテナンス等で海上自衛隊
との交流があり、繁盛した時期もあったことを覗わせている。



 商店街のアーケードは、開閉式であったようだ。
今では開け放たれた通りの上に、山形の錆びた鉄骨が立ち並び、中央に
下げられたランプ型の街灯が、見事な造形美をみせており、レトロ感が
溢れている。皮肉なもので、近頃ではその寂れたレトロ感が「映える」
と言われ、人気だそうだ。(続)





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