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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

木犀の陣屋(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-08-01 | Weblog


 今市の交差点で京街道の石碑を見て、ここで国道とは分かれ、左の旧
道に入ってきた。とは言え中心市街地に近いこの辺りは、完全に近代の
通りである。建て高こそ低いものの、多くはコンクリート造の新しい事
務所や商店、マンション等が犇めいていて、その所々の間に、普通の住
宅が窮屈そうに納まっている。



 これまでの経験では自治体にもよるが一般的には市街地に入るほどに、
旧街道の道案内は減っていく。無いところは本当に何も無く、この道で
大丈夫なのかと何時も不安を抱く。
 しかしこの辺りでは路面にも「京街道」の案内プレートが埋め込まれ
ているので其れを頼りに歩く事になるが、これは本当に心強く有り難い。



 途中今市一丁目に「木犀の陣屋跡」と書かれた案内板が有った。
古市村の浅田邸の庭園には見事な木犀が三本植えられていた。大きなも
のは周囲が2.2mもあり、中位のが1.8m、小さいのでも1.3mという。
三本の木が咲き揃う季節ともなると、遠く蒲生や関目までその香りを漂
わせていたと伝えられている。



 関目までは直線でも1㎞は離れている。強い芳香を放つ木犀とはいえ、
流石にそれは無い・・・、等と野暮は言わないが、建屋も疎らの当時な
ら風向きに因っては香りが感じられたのかも知れない。

 モクセイは、一般的に樹高は3~10mと言われているので、最大級の
見事な大木であったようなので、芳香もそれだけ強かったのであろう。



 第14代将軍・家茂や多くの大名達はこの香りを愛で、守口宿ではなく
この浅田家に宿泊していたという。
 浅田家は戦国時代から続く名家で、当時森小路の庄屋を務め、広大な
1,600坪の敷地を有していたと言うが、その土地も建物は現存しない。(続)



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京街道の石碑(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-30 | Weblog
 左奥にある守居神社前の道を過ぎ、次の交差点まで来ると右手道路の
奥に、目印にしてきたNTTビルの赤い塔が見えている。ここを右折して
国道に迂回せよ書かれた案内もあるが、そのまま商店街の中を突き進む。



 そこから今少し歩いてアーケードの商店街を抜けると、目の前を国道
479号線が貫いていた。国道の向こう側には、直進できる旧道が若干残
されているようだが、国道の中央には分離帯があり横断歩道が有るもの
の信号が中々変わらない。



 最も残された旧道も、その先で直ぐに途切れてしまうので、結局は併
走する国道1号線を歩くことになる。従ってどこで1号線に出ても大差
は無いので有る。

 ここでは 右折して国道1号線の京阪本通1丁目交差点を目指す。
賑やかに車が行交う通りは俗に京阪国道とも呼ばれる幹線で、道路下に
は地下鉄も走っている。



 交差点に出て左折、国道をそのまま今市の交差点を目指し西進する。
歩道を100m余り歩いたところで、区第91号線を越えると守口市から大
阪市旭区に入って行く。 市境から300m足らずで、城北公園通りと接
する国道今市の変則交差点に出る。



 角に昭和60年に立てられた真新しい「京かいどう」の石碑があった。
説明によると、「豊臣秀吉が、文禄堤上に大阪と京を結ぶ街道を設けた
折の当初は、大阪城京橋口がこの街道の起点で、ここから片町、蒲生、
関目、今市と続き守口、枚方、橋本、伏見、桃山を経て京へ至った。



 江戸時代になって、起点が高麗橋東詰に移った」と記されている。
秀吉の時代、文禄年間(1592~1596)のこの道は、政治・軍事上の幹
線道路であった。



 その旧道は道路の向こう側に、国道から分かれ左に入る細い道が見え
ている。大阪市内に入りこの先は市街中心地を目指し、秀吉時代の京橋
を経て、江戸時代の終点高麗橋まで歩くことになる。
あと少し、ようやく歩き旅の終わりが見えてきた。(続)

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商店街を抜けて(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-28 | Weblog
 文禄堤上に延びる守口宿を後に旧街道を西に向う.
旧道を暫く行くと、本門佛立宗の義天寺が有る。明治29(1896)年創
建の新しい寺で、山門の左手に「お題目石」が立っていた。



 かなり大きな石柱で古そうなので、謂れを調べてみると、豊臣秀吉の
残党の処刑者を供養したもので、嘗て大阪野江の刑場にあったらしい。
碑には元禄八年との記銘が有り、「大正十一年五月十七日再建」と彫ら
れているらしい。



 旧道はこの先で道なりに右カーブすると急坂となって下っていく。
ここまでが秀吉が築いた文禄堤の名残で、この下り様で堤の高さを窺い
知ることが出来る。坂を下り切ると前方右に、元は三洋電機の本社ビル
という守口市役所の建物が見える。



 嘗てはこの辺りには同社の本社機能が集約されていたが、パナソニ
ックグループに入った事により、殆どが廃止、空きビルになった。
市は老朽した旧庁舎に変わるものとして取得し、平成28(2016)年
10月31日から当ビルで業務を開始したという。



 左折してマンションが建ち並ぶ通りを行くと「日吉公園」があり、通
り過ぎると道は自然に京阪東通り商店街のアーケードへと入っていく。

 平日の昼前の時間帯ながらシャッターを下ろした店が多い印象だ。
買い物らしい人は疎らで、駅に向うのか自転車や足早に通行する人ばか
りが目に付く。



 途中に交差点があり、東通り商店街はここまでだ。左に曲がると土居
商店街で、突き当りが京阪土居駅で有る。ここを反対の右方向に向えば
旭通商店街が延びていて、行き当たりが国道1号線だ。



 東通り商店街はその先で京阪商店街へと続いている。
途中に中通り商店街が交差していて、この辺り一帯を土居商店街と総称
するらしい。(続)

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宿場の宿・木賃宿 (東海道・チョット一息)

2025-07-25 | Weblog


 「旅籠」は、元々は旅の折り馬の飼葉を入れる籠(かご)の事を言う。
それが何時しか旅人の食糧等を入れる器の意となり、転じて宿屋で出さ
れる食事の意味になり、更に食事を提供する宿屋の事を旅籠屋と呼ぶよ
うになり、旅籠と略された。



 旅籠に於ける飯盛女の存在は、「宿場」に立寄る旅人だけには留まら
無かった。「留女」「女中」「飯盛女」等若い女が宿場町に働きに出て、
その姿が消えた近隣の村々からも男達を引き寄せ、経済的な繁栄には、
欠かせないものであったらしい。それだけに幕府も無下には取り締まれ
ず、黙認するより仕方が無かったという。



 飯盛女を置く旅籠は「飯盛旅籠」と呼ばれていたが、置かない旅籠は
「平旅籠」或いは単に「平宿」などと呼ばれていた。

 しかし中には強引な「留女」の客引き行為を嫌い、「飯盛り女」を疎
ましく思う旅人もあった。特に一人旅や、訳ありの旅人、行商人は好ん
で「平旅籠」を使ったといい、更に安く上げるため、利用したのが、女
無し、食事無しで泊まる「木賃宿」である。 



 当時旅人の中には携行食の乾し飯(ほしいい)を持参する者もいた。
現地で調達した食料を持ち込んで調理場を借り自分で調理して食べる旅
人もいた。勿論宿代を安く上げようとの意図もあり、こういった人たち
が煮炊きのための薪代を払って泊まっていたから「木賃宿」といった。 



 当時では最下層の宿ではあるが、今でも簡易宿所のような安宿を木賃
宿等と言うこともある。食事なしのスタイルは今で言うビジネスホテル
に近い。食材持ち込みは、温泉地等に多い湯治宿に似たようなものだ。



 こうして多様な宿泊スタイルは存在したが、それでも安心して安く泊
まれる宿を要望する声も多かったという。
それに応えようと後々には健全化を目指す旅籠の組合や講社なども出来
たようだ。(続)(写真は守口:本文とは無関係)

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宿場の宿・旅籠 (東海道・チョット一息)

2025-07-23 | Weblog


 「宿場」には、庶民や公用ではない武士などが利用する「旅籠(はた
ご)」が何軒も建ち並んでいた。その数は「宿場」の規模を位置付ける
もので小規模なら二十軒程度、中規模なら数十軒から多いところでは、
200軒を超える宮宿(尾張)みたいなところもあった。



 多くの旅籠は宿場内は街道に沿って、平入りで建てられ間口を揃え、
整然とした町並みを形成していた。
 例えば品川宿は北の入口・八ツ山口から目黒川まで辺りが北品川宿、
そこから青物横丁辺りまでが南品川宿で、総延長は2.4Kmもありその
間に戸数1600戸余り、内旅籠の数は93軒を数えたという。



 宿場では日暮れともなると「留女(とめおんな)」と呼ばれる女達が、
到着したばかりの旅人を旅籠へ呼び込もうと、盛んな客引きが行われて
いたようだ。
 広重の『東海道五十三次の内三十六御油「旅人留女」』や、十返舎一
九の『東海道中膝栗毛』でもその様子がユーモラスに描かれている。



 「旅籠」は一泊二食付きが基本で、これは現在の旅館の宿泊スタイル
と同じだ。その「旅籠」には旅人の世話をする飯盛女がいて、「飯盛旅
籠」と呼ばれていた。
しかし飯盛は表向きで、女は泊まり客の相手をする女性である。



 いわば幕府が黙認した売春婦のような者であった。
こうしたことから宿内人口は、殆どのところが男より女が多かった。

 旅の慰みとして持て囃され、当時の旅行案内書には、宿場毎にその評
判と相場が書かれていたが、このことは宿場を抱える地元経済を支える
大きな柱になっていたようだ。。
 


 街道筋で幕府公認の遊郭が有ったのは駿府(静岡)だけで、それ以外
の「宿場」には飯盛女がいたと言うが、草津・石部・水口・坂下などに
はいなかったとの説がある。(続)(写真は守口:本文とは無関係)

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本陣・脇本陣 (東海道・チョット一息)

2025-07-21 | Weblog


 八代将軍・吉宗による「御触書寛保集成」では、華美になりがちな参
勤交代の人数を、石高により規定し、費用に苦しむ大名達の救済策が示
された。それでも20万石以上の大名では500名近い行列と成り、それに
関わる費用は決して少なくはなかった。



 大名達が宿場で泊まる場所が「本陣」であるが、大名に限らず天皇の
勅使や、公家、幕府公用役人なども利用した。大人数で本陣に収容しき
れない場合、予備として充てられた宿舎が「脇本陣」で、これら本陣と
脇本陣は一般の旅籠とは厳格に区別されていた。



 宿場の本陣は権威の象徴みたいな存在で、可成りの格式を有し、特権
として表門を構え式台付き玄関、書院・上段の間等を設けることが許さ
れていた。本陣は土地の名主や問屋役など、土地の有力者の居宅が指定
されることが多かった。



 本陣では宿泊費は取らず、大名からの謝礼で賄われ、その為収支的に
は儲けにはならなかったようだが、主人には特権として名字帯刀が許さ
れる等の名誉が与えられていた。 



 スケジュールに則り粛々と行なわれる参勤交代も、時に川留めや思わ
ぬアクシデントにより工程が狂うことがある。一番の困り事が宿舎の重
複で、これは相手の身分により宿替えを余儀なくされる事も有った。

 朝廷の勅使が最も優遇され、例え将軍の名代でも、大名でも、本陣を
明け渡し脇本陣や、時には宿内の寺等に移らなければ成らなかった。



 大名ででも本陣・脇本陣に泊まれる家臣は上級職のみで、多くの下級
家臣は宿内の寺院や旅籠に分宿した。勿論一般旅行者は泊まれるはずも
無かった。

 こうしたことから宿内には、本陣・脇本陣を補完する宿泊施設として、
又一朝有事の際兵の駐屯地とする目的もあり、寺院が多く建てられてた。
(続)(写真は守口:本文とは無関係)

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守口宿 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-18 | Weblog
 守口の宿場町は、現存する文禄堤の上に形成され、この堤ノ町では商
いが盛んで、木綿問屋、酒卸問屋、呉服問屋から米屋、漬物屋、下駄屋
等が軒を並べていたという。

 今でもこの通りには当時を偲ばす宿場跡の情緒が感じられる連子格子、
虫籠窓、卯建のあがる家、犬走りのある町屋等が多く残っている。



 通りにはマンションに混じり、古民家を改装した店舗などもある。
中程にある高札場は、八島交差点付近に有ったものが、市街の開発で取
り壊され、往時を偲んでここに再現されたもので有る。



 江戸時代、江戸町中の町屋には軒下に3尺(約90㎝)の「犬走り」を
設けることが義務付けられていて、そこから道路との間には幕府が管理
する雨水溝が設けられた。向かい合わせた民家から見て雨水溝に挟まれ
たところが公道とされ、この形はほぼ全国共通であったようだ。



 公道の移動は徒歩が基本で、駕籠の使用は身分により種類、仕様が厳
しく制限されていた。物資の運搬は大八車が馬、牛車に限られ、騎馬は
武士のみに許された特権だが町中の通行は原則禁止されていた。
当然の事ながら町民の乗馬は禁止されていた。



 守口宿の家数は171件、人口は800人弱と伝えられている。
本陣1軒、問屋場1軒、旅籠は27軒、大阪へは2里、枚方まで3里の位
置にある為、馬継ぎの用意は無く人足のみが100人配置されていた。



 大阪を目指す旅人の多くは淀川を舟で下りここは素通りする。東に向
う旅人も、流石にこの宿場での泊まりはない。
奈良街道(清滝道)との追分けで要衝ではあったが、残念ながら川湊は
発展せず、陸路の宿泊も大した賑わいは無かったようだ。



 東海道五十七次も守口宿を後に、いよいよ二里先の上がり大阪・高麗
橋に向け歩みを急ぐ。(続)

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文禄堤 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-16 | Weblog


 盛泉寺の前を通り、難宗寺の角を西に右折して、竜田通りに入ると数
十メートルで今の矢島交差点に接する。この辺りが宿場当時の中心部で、
今も昔も変わらない道幅の通りには本陣や問屋場が有り、市が開かれた。

 旧道は交差点には出ず直前で直ぐに左折して斜めの道に入るが、この
角には高札場があったようだ。



 暫く行くと分岐があり、左の路地のような細い道は坂となり下り、来
迎町から桜町を経て、京阪守口駅へと続いている。一方旧道は右の道で、
高台の上に続いているが、この高台こそが「文禄堤」の名残である。



 文禄堤とは豊臣秀吉が文禄5(1596) 年、毛利輝元・小早川隆景・
吉川広家の三家に命じ、治水と大阪城(天正11(1583)年築城)から
伏見城(文禄3(1594)年築城)まで続く最短ルート(京街道)とし
て修築した淀川左岸の堤防で、多くは淀川に沿うように造られている。



 現在の枚方市から大阪市北区長柄に至る27㎞にも及ぶ長大な堤であっ
たが、度重なる淀川の洪水やそれに伴う改修でその多くが姿を消したが、
守口八島交差点から先の義天寺辺りまでの凡1㎞の間にだけ残っている。
守口の宿場はこの堤上に開かれた。



 堤防上の街道からは、奈良街道の来迎坂等、幾筋もの坂が下りている。
市内の主要道と堤防が交差する場所は切り通しと成り、上には本町橋や
守居橋などが架けられている。



 ここから町を眺めると、その高さが実感できる。目の前の京阪本線守
口市の高架駅が若干見上げる位置に有り、高さで言えば二階建てよりや
や高いくらいの位置関係とわかる。(続)

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盛泉寺と難宗寺 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-14 | Weblog
 

 交差点を横断し浜町一丁目に入ると左手に、浄土真宗大谷派・盛泉寺
(じょうせんじ)がある。

 説明によると「東本願寺派の元守口別院(東御坊)で、幻の大阪遷都
ゆかりの寺とあり、慶長11(1606)年に教如上人が開基した。本堂は大
坂夏の陣の兵火で焼失した後天保6(1835)に再建された」ものという。



 明治元年天皇は、三種の神器の内の八咫の鏡を持参し、大阪行幸を行
ない、本堂前に「内侍所奉安所(賢所)」を奉安された。
遷都の意志を持っての50日もの長い行幸であったが、江戸城が無血開城
と成り江戸遷都が決まり、このことは幻の大阪遷都ともいわれた。
跡地は史蹟となり山門前に「史跡 内侍所奉安所址」の碑が立っている。



 交差点を越えた左側には、浄土真宗本願寺派・難宗寺(なんしゅうじ)
がある。江戸時代には盛泉寺の「東の御坊」に対し、ここは「西の御坊」
と呼ばれていた。文明7(1475)年、枚方光善寺を建立した蓮如上人が、
その次に開創したと伝わる寺だ。



 その後の元和元(1615)年、兵火により焼失、岩清水八幡宮護国寺
仮堂の古材を再利用し、文化7(1810)年に再建されたのが今日の本
堂である。明治天皇阪行幸の折、盛泉寺には賢所が奉安され、ここが
天皇の御座所として供された。



 山門左の三階建ての建物は「太鼓楼」といい、時間を知らせるもので、
寺の格式の高さを示している。境内の「いちょう」は府の天然記念物で、
推定樹齢500年の巨樹、樹高は25m、目通りの直径1.5mの雄株である。



 難宗寺の角の築地塀の前に四本の古い道標や石柱が残されている。
「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」「御行在所」などと刻まれていて、
嘗てはここが交通の要地であったことをうかがわせている。(続)

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守口一里塚(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-11 | Weblog


 長かった淀川の堤防道を離れ、大庭の町に入ってきた。水道局浄水場
の間を抜け、「八雲北公園」の前を右折、突き当りの「正迎寺」の前で
道なりに左折する。
 余り広くもない町中の道を行き、200m程先で阪神高速道路守口線の
高架下をくぐり、「八雲小」「八雲公園」前の細道を抜けて行く。



 やがて国道155号交差点に出て、右折し暫く国道を歩き「守口東高校」
を左に見て先の信号を右手に入る。これが旧道らしく、その先でS字形
に行く道は、「北斗町」信号で国道を横断し、渡って細い道へと入り200
m余りで国道1号線の「浜町」交差点に出る。



 交差点の手前右側にポケットパークがあり、植栽の中に守口一里塚の
案内板と石碑が建っていた。
ここが守口宿の出入口である江戸側の見附が有った場所らしい。
宿泊した大名の旅立ちや通過する時は、問屋や庄屋などの村役人が、麻
上下などを着てこの一里塚で送迎したといわれている。



 国道は守口の町を貫く幹線道路で、「浜町」交差点を右に取れば大阪
城方面だ。この先直ぐに大阪メトロ谷町線の守口駅が有り、国道の下を
地下鉄が走っている。

 旧街道はこの交差点を横断し、細い道に入っていくと、昔はここに
「瓶橋(かめはし)」という橋が架かっていた。
橋の名前は、「口を守ること瓶のごとし」からきているらしく、守口
宿の東の入口を固める橋であったようだ。



 道路脇に、旧橋の親柱が下部が埋もれた状態で残されていた。 
年を経る程に道路の補修が重ねられ、その都度少しずつ埋められていっ
た様子だ。

 文化財であるが故に嵩上げなど安易に手を加えられないのであろうか、
貴重なものだけにこれではかわいそうだ。(続)



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