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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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守口宿 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-18 | Weblog
 守口の宿場町は、現存する文禄堤の上に形成され、この堤ノ町では商
いが盛んで、木綿問屋、酒卸問屋、呉服問屋から米屋、漬物屋、下駄屋
等が軒を並べていたという。

 今でもこの通りには当時を偲ばす宿場跡の情緒が感じられる連子格子、
虫籠窓、卯建のあがる家、犬走りのある町屋等が多く残っている。



 通りにはマンションに混じり、古民家を改装した店舗などもある。
中程にある高札場は、八島交差点付近に有ったものが、市街の開発で取
り壊され、往時を偲んでここに再現されたもので有る。



 江戸時代、江戸町中の町屋には軒下に3尺(約90㎝)の「犬走り」を
設けることが義務付けられていて、そこから道路との間には幕府が管理
する雨水溝が設けられた。向かい合わせた民家から見て雨水溝に挟まれ
たところが公道とされ、この形はほぼ全国共通であったようだ。



 公道の移動は徒歩が基本で、駕籠の使用は身分により種類、仕様が厳
しく制限されていた。物資の運搬は大八車が馬、牛車に限られ、騎馬は
武士のみに許された特権だが町中の通行は原則禁止されていた。
当然の事ながら町民の乗馬は禁止されていた。



 守口宿の家数は171件、人口は800人弱と伝えられている。
本陣1軒、問屋場1軒、旅籠は27軒、大阪へは2里、枚方まで3里の位
置にある為、馬継ぎの用意は無く人足のみが100人配置されていた。



 大阪を目指す旅人の多くは淀川を舟で下りここは素通りする。東に向
う旅人も、流石にこの宿場での泊まりはない。
奈良街道(清滝道)との追分けで要衝ではあったが、残念ながら川湊は
発展せず、陸路の宿泊も大した賑わいは無かったようだ。



 東海道五十七次も守口宿を後に、いよいよ二里先の上がり大阪・高麗
橋に向け歩みを急ぐ。(続)

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