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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鳥飼大橋と舟渡し(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-09 | Weblog


 淀川堤防上の長い長い一本道も、目の前の鳥飼大橋を潜ればようやく
終わりが見えてくる。大阪府守口市大日町と摂津市鳥飼西の間に架かる
橋で淀川の橋としては比較的早い昭和22(1947)年に木橋が完成した。

 その後掛け替えが行なわれ、永代橋として生まれ変わるのは、昭和29
(1954)年11月の事で、当初は有料橋であった。



 嘗てこの辺りでの淀川横断は、「鳥養(鳥飼)の渡し」と呼ばれる渡
し舟であった。対岸の摂津市鳥飼、藤森神社の近くには、「漫鳥飼の渡
し跡」があるらしいが、こちら岸ではこの渡しを「仁和寺(にわじ)
の渡し」と呼んでいたらしい。



 慶長年間、大坂冬の陣を前に家臣とともに大阪城を退き茨木城に入っ
た片桐且元もこの時使ったと伝えられていて、古く戦国時代から続く渡
し舟でだ。 渡しは江戸幕府成立後は幕府寺社奉行管理の許可制となり、
明治の世に入ると民間で運営され渡し銭を取っていた。



 渡し船はその後も運航を続け、昭和8(1933)年に大阪府営と成り、
以降は無料で利用出来るようになる。二艘の船が活躍していたといい、
それは鳥飼大橋の完成後も続けられた。



 鳥飼下と仁和寺を結んだ淀川本流の渡し舟としては、最後となる昭和
50(1975)年に淀川改修工事に伴い運航が休止され、その後廃止となり、
数百年に渡るその歴史を閉じている。



 堤防道は鳥飼大橋に行く手を塞がれ、案内板に従い一旦堤防から一段
低い河原の遊歩道まで下り、橋の下を潜ったら再び堤防に上がる。
その先で左土手下の「八坂瓊神社(やさかにじんじゃ))を見ながら坂
を下り、大庭の町中に入っていく。(続)

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堤防の道は長かった (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-07 | Weblog
 茨田(まんだ)堤の碑を見て、そのまま堤防道を南西方向に進むと、
遠くに見えていた枚方新橋が、漸くのこと近づいてきた。
出口集落を抜けで堤防道に上がってからここまで2㎞程を歩いている。



 橋は府道19号茨木寝屋川線の寝屋川市太間町と高槻市柱本の間に架か
っている。これまで枚方大橋と鳥飼大橋の間には橋が無かったことから、
昭和48(1973)年9月に架けられた橋らしくその下を潜り更に先に進む。



 ガイドマップによると橋から少し行って石段を下りた堤防下に、「茨田
樋之跡」の石碑があるらしい。淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ
水門のようなもので、明治38(1906)年に完成した。

 枚方から毛馬まで八ヶ所有るらしいが、台風などの大水時に堤防が決壊
するおそれがあるとして、昭和の初期頃には全て廃止され、その跡地が遺
跡水辺公園として整備されているという。



 ここまでひたすら堤防道を歩いてきて、この先もまだ5㎞程は続くが、
変化が乏しく少し飽いてきた。更に下の河原に降り、川沿いを歩く手も
あるが、その上り下りも億劫で、ひたすら前を向き歩いている。



 淀川新橋から2㎞程歩いて、フォルムが美しい鳥飼仁和寺大橋を潜る。
一般にケーブルを利用し吊って支える構造のものを吊り橋と言うが、この
橋は塔と桁をケーブルで直結して支える構造から斜張橋といわれるものだ。
府道15号八尾茨木線の大阪府寝屋川市仁和寺本町2丁目と、同摂津市鳥飼
中1丁目、2丁目を結ぶ延長688mの有料道路である。



 この辺りの地名を「仁和寺町」という。
かつて京都の仁和寺(世界遺産「古都京都の文化財)の構成要素の一つ」
の寺領となっていた事に由来するらしい。(続)



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茨田(まんだ) 堤の碑  (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-04 | Weblog


 光善寺を後に、趣のある古民家等が散見される細い旧道を抜けていく。
集落の中で南から西向きに進路を変え、幹線用水路を越えると、堤防下
に軒を揃える出口6丁目を通りそのまま淀川の堤防道へと上がっていく。



 その道は車輌乗り入れは禁止で、自転車・歩行者専用道らしく、散歩
やサイクリングを楽しむ人々が頻りに行交っている。

 堤防の下は広大な河川敷に拡がる「淀川河川公園」で、先には淀川が悠
然と流れ下っている筈だが、ここからは望むことは出来ない。
公園は出入り自由かと思ったが、使用時間が決められているらしく、所々
にゲートが設けられている。



 土手の上を暫く行くと、左側に茨田(まんだ) 堤碑が建っていた。
説明板によると、「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、
これは河川堤として本邦最初のもの」と有るが、堤防の位置は諸説有り、
未だによく解っていないらしい。



 堤の築造は難工事で、二ヵ所の「絶間(たえま)」という場所に人柱
を出すことになり、武蔵の人・強頸(こわくび)と河内の人・茨田連衫
子(まむたのむらじころもこ)の二人が生贄として選ばれた。



 強頸はそのまま人柱の犠牲となったが、衫子はこれを沈ませられれば
人柱になろうと「ひょうたん」を投げる機転をきかせて助かったという
伝説が残っている。 



 碑には、「当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地を河道としてい
たが、それを二流に分けこの間に農地を確保したのが茨田堤(中略)」
と有り、最後に「土佐日記でいう「わたの泊りの分れの所」もこの地
点としてよいだろう。」と書かれている。(続)

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出口御坊・光善寺 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-02 | Weblog


 「伊加賀小学校」と工場に囲まれた道を抜けると、ふれあい公園を左
に見る道は随分と狭くなった。
そんな道を200m程行くと右手奥の「光善寺」に続く参道があった。
出口御坊 淵埋山(えんまいざん)・光善寺は、浄土真宗本願寺八世・
蓮如上人により開基とされる由緒あるお寺だ。



 出口地区は蓮如上人が建立した御坊を中心にして発達した寺内町で、
上人はここを拠点に近畿一円に教化活動を展開し、三年後には山城に創
建した山城本願寺に移った。
ところが上人が死ぬと、その後寺は戦国乱世に巻き込まれ一時衰退する。
慶長年間(1596~)にようやく再興されることになり、今日残るのは江
戸時代の伽藍という。



 山門は切妻造・本瓦葺の四脚門で、17世紀中ごろ(慶安~寛文頃)の
遺構とみられる。
門の右手に見えるのが脇門で、その奥に聳えるのが二階建ての太鼓楼だ。
山門を潜ると蓮如上人の座像がある境内で、正面が本堂である。
入母屋造、本瓦葺の建物は、桁行9間(実長11間)、梁間7間半(実長11
間)の堂々たるもので、天明2(1782)年8月に再建上棟された。



 光善寺の前を南下する道は、いかにも旧道にふさわしい昔ながらの狭
い道で、両脇には古い建物が幾つも見られる。
門前を後に200m程進むと、左手に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」と
刻まれ大きな石碑が立っていた。



 石碑の立つ正面奧には玉垣で囲まれた一画があり、中には蓮如上人が
腰をかけて説法したという小さな丸い「腰掛石(こしかけいし)」がある。
「御田地」とは、元々はお上から預かった田畑のことを言うが、ここで
は説教所の事で、上人はここで村人達に説法をしていたといわれている。(続)



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国道170号越え (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-30 | Weblog


 「枚方宿西の見附」から旧京街道(東海道五十七次)に戻り、カラー
鋪装が施された道に導かれるように角を曲がり桜町に入ってきた。
雑多な感がする町並で、軒の低い住宅が建ち並んでいる。所々に立てら
れた道端の石の道標には頻りに「水面回廊」への案内が見られる。



 調べてみると「水面廻廊」と言うのは、「雨水路(幹線用水路)を
整備して、人と生き物と自然が共存できる水辺の空間として造られた
公園」を言うらし。旧道からは北に離れた通りで、桜町から出口地区
に至る凡2㎞に及ぶ遊歩道のようで、桜の名所という。



 この標識に気を取られていたわけではないが、実はこの先で道を間違
えてしまった。国道170号線越を前にして桜町の外れで、一本早く右に
曲がってしまったのだ。
 伊加賀本町に入るとこの道は、国道の下を潜り、大きく迂回をしなが
らセザール枚方公園の中を抜け、ようやく「枚方大橋南詰交差点」の南
詰めに出る。



 桜町で右折せず道なりに行けばストレートでこの交差点が越えられた
のだが、大きく遠回りをしてしまった。交差点に出たものの、ここから
は本来来るべき旧道が見渡せず、重ねて大きく回り込んできた為に方向
感がずれてしまい、この先進むべき道が直ぐに判断できない。
通りがかりの女性に「西伊加賀町」へ入る道を確認する羽目となった。



 住宅地の道を400m程で左折、150m程で伊加賀西町の高三に出て右
折、更に少し進んで左折を繰返し、テニスコートの有る伊加賀スポー
ツセンター横の道に入り込む。「伊加賀小学校」と工場に囲まれた緩や
かに曲がる道を進むと、「でぐちふれあい公園」で、旧道は出口集落へ
と入っていく。(続)



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参勤交代 (東海道・チョット一息)

2025-06-27 | Weblog


 江戸幕府は、幕藩体制を強化する目的で、寛永12(1635)年参勤交
代を制度化した。全国の大名は一年ごとに江戸と領国を行き来する事、
大名の妻子は言わば人質として江戸に住むことを義務付けた。

 大名や妻子が住む為、幕府の官舎である大名屋敷、即ち上(かみ)・
中(なか)・下(しも)の屋敷を与え、府内に住まわすことにした。



 参勤交代は大名にとっては一大難事で、壮麗な行列を組んでの参勤は、
度重なると出費も増え藩の財政を極度に圧迫したと言われている。
幕府にとってはこれが狙いで、財政悪化による藩の弱体化、しいては幕
府に対する反抗・反乱を未然に防止することに繋げようとした。



 参勤交代のルートや、どこの宿場に泊まるかは大名に任されていたが、
江戸参府の日程は事細かに定められていた。
それらの届け出は義務付けられ、一度決めると慣例に従って・・・とな
り中々変更は難しかったという。しかし道中は天候の影響や川留めなど
もあり、予定が変われば届けさえすれば罰せられる事はなかったらしい。



 華美を競う行列が藩財政を圧迫する、その弊害を改善したのが、八代
将軍・吉宗で、行列の規模、人数は石高による取り決めをした。
1万石程度の大名は、騎馬3~4騎、足軽20人、中間人足30人とした。
20万石を越える大名は騎馬15~20騎、足軽120~130人、中間人夫250
~300人との取り決めである。



 そんな行列が、出発から到着まで一糸乱れぬ隊列を組んでいたのか、
と言うとそうではなく、隊列は宿場の直前で整えられそこの通過時だ
けで、それ以外は三々五々小集団がそれぞれのペースで移動していた
と言うから面白い。(続)(写真は枚方宿 本文とは無関係)



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大名の序列(東海道・チョット一息)

2025-06-25 | Weblog
 江戸幕府は、厳格に諸大名の格付けを行っていた。
その最たるものは徳川将軍家との関係性による序列である。

 最上位は家康の子供を始祖とする尾張、紀州、水戸の「御三家」だ。
後の世には、八代将軍吉宗の子供と孫を始祖とする田安、一橋、清水の
「御三卿」がこの次に列せられ、この大大名のみが徳川姓を名乗ること
が出来た。



 これに続くのが徳川家一門の大名「親藩」である。更に徳川家の家来
筋に当る「譜代」大名と続き、最下層が嘗て豊臣秀吉の時代に徳川家と
同列で、徳川の時世になって臣従した「外様」大名である。



 一般的に「親藩」や「譜代」の大名は江戸城近辺に、また重要地とさ
れる名古屋や大阪等に所領が与えられたが、「外様」は遠隔地が多い。
こうした処遇でも序列を窺う事は出来るが、如実に視覚化されたのが江
戸城に於ける控えの間である。



 大名は江戸在府中は定期的に、又定例の登城日や節句・慶事等、事あ
る毎に指定された日に登城し、将軍に拝謁する義務が課せられていた。
登城した大名は控えの間に入り拝謁迄の時間を待つのだが、これも大名
の序列により厳格に区別されていた。



 御三家が詰めるのが最上位の「大廊下」、以下大老や老中等幕府要職
の有資格者や退任者は「溜之間」、国持大名クラスの「大広間」、譜代
大名の中でも高位大名の「帝鑑之間」、幕府成立後取り立てられた大名
も、城主クラスは「雁之間」無城クラスは「菊之間」、外様大名で無城
クラスは「柳之間」である。



 将軍の拝謁は、「大廊下」「溜之間」の大名は白書院で、それ以外は
「大広間」で行われるのがしきたりであった。
このように大名の序列化は、何処までもシビアに行われていた。(続)
(写真は枚方宿 本文とは無関係)



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枚方宿西の見附(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-23 | Weblog
 鍵屋資料館を過ぎ、桜町交差点のところで淀川の堤防に出てみる。
目の前に拡がるのは、河川敷に設けられた「淀川河川公園」で、上流は
八幡の御幸橋辺りから、下流は河口に近い淀川大橋辺りまで展開する広
大な河川敷公園である。



 ここ枚方地区には、野球・サッカー場やバーベキュー広場、芝生広場
などが整備されている。

 枚方市は旧宿場町の保存に務め、それを生かした町づくりに挑んでいる。
資源を生かし、観光客を受け入れるべく施設を整備する当地には、まだま
だ見どころが沢山あった。


 
 立ち寄れなかったが、本陣跡の近くには、日本で最初の「河川博物館」
として昭和52(1977)年に開館した「淀川資料館」(入館無料)もある。
町中には、江戸後期から明治にかけて造られた町屋も多く、ゆっくりと
時間を掛けて巡りたい宿場町である。



 桜町交差点の道路脇に、大きな自然石の石碑がある。明治19年に建立
された「明治十八季淀川洪水碑」で、市の文化財に登録されている。
豪雨で決壊した箇所は水深が5.5mも有り、水勢が激しいことから、ここ
から少し後退したところに弓形の仮堤防を築いて防いだことなどが記され
ているらしい。



 近くには、「郵便屋の渡し」の石碑も有る。碑文によると「昔淀川に
橋は無く、(中略)三ツ矢には枚方地方では最も利用者が多く、親しま
れた枚方の渡し(大塚の渡し)がありました。(中略)郵便物はこの渡
しで淀川を渡り国鉄高槻駅まで運んでいました。」



 この辺りが、枚方宿の西の出口に当たり、「西の見附跡」で案内板が
建っていた。ここを出れば東海道五十七次は最後の宿場「守口」まで、
凡そ三里(12㎞)の道程が待っている。(ここでチョット一休み)



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鍵屋資料館(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-20 | Weblog
 嘗て大阪は、「天下の台所」と言われ、大阪・天満の八軒屋浜を基点
とする淀川の舟運は、経済活動の大動脈とされていた。



 瀬戸内海から日本海へ、淀川から京・伏見、更に琵琶湖へと三十石
船や二十石船、過書船(通行量免除の舟)などが行き来し、最盛期に
は1400艘もの舟が運航していたと伝えられている。 



 東海道を大阪に向かう旅人の多くは、京に向かいそこから淀川の舟運
を利用するのが殆どで、半日ほどの行程であった。
夜舟も出ていて舟中で寝ながら向かう者もいたらしい。
 その為三十石船が行き交う淀川は賑わい、乗客に対、「餅くらわんか、
酒くらわんか」と売りつける茶舟「くらわんか舟」が発達した。



 一方、大阪から江戸に向う旅人は、川を遡る舟運の所要時間が、徒歩
とそれほど変わらずそのくせ舟賃は倍も取られると有って敬遠していた。

 陸路を歩くのはこのような旅人ばかりで、枚方や守口の宿場を利用す
る者も京への上り客に限っていて、片宿であったらしい。
枚方では陸路よりも海路の方が活況を呈したようだ。



 浄念寺前の曲尺手を過ぎると、旧街道は三矢町から堤町に入っていく。
道を直進すると右側に「鍵屋資料館」(入館 大人200円)がある。
この鍵屋は、淀川舟運の中継湊として賑わった枚方宿の代表的な船宿で、
創業は天正年間、主屋は文化8(1811)年に建てられたものと言う。 



 表玄関は京街道に沿い、裏口は淀川に接していて、船の乗降には最適
な構造になっていた。船運がなくなった後は料亭を営み、その後廃業、
平成13(2001)年、「市立枚方宿鍵屋資料館」となった。
「主屋」は市有形文化財、「別棟」は昭和初期の建築という。(続)



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ここにも曲尺手(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-18 | Weblog


 その先に浄土真宗・西御坊の浄念寺があった。
開基は、明応4(1495)年に、蓮如上人の弟子の石見入道浄念による
寺である。枚方は元々浄土真宗が盛んな地であったが、天和年間に本
願寺が東と西に分裂したため、浄念寺を西御坊、京阪踏切を挟んで反
対側にある願生坊を東御坊と呼ぶ様になった。



 寺の前の道は右へ曲ってすぐ左折するいわゆる「曲尺手(かねんて)」
になっている。枚方宿には本陣を挟んで、東側には枚方橋と宗佐の辻、
西側にはここ浄念寺と西見付に曲尺手が設けられていた。



 これは大勢が一気に宿場内に雪崩れ込む事を防ぐ軍事的な目的の他、
大名行列同士が宿場内でかち合わないようにする役割も持っていた。

 この時代、大名がすれ違う時は、格式の低い大名が駕籠から降り挨拶
する仕来りがあり、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭
にとっては一番の失態とされていた。その為曲尺手の先に斥候を出して、
万一の場合は休憩を装い、近隣のお寺に緊急避難をした。



 近くに「枚方宿問屋役人木南喜右衛門家」屋号は田葉粉屋の重厚な屋
敷が残されていた。案内板には「木南家は江戸時代初期から庄屋と問屋
役人を兼ね、くらわんか船の茶船鑑札を所持し、宿と村の運営に大きな
影響を行使した。」と書かれていた。



 現在の建物は明治期の建築で、長い間口に出格子と虫籠窓が連なる伝
統的な表屋造りで、広い敷地内に、四棟の土蔵を配した町屋は可成りの
規模である。
 他にも岡元町の大塚家や羽田家等、平入りの町屋が二・三建っていて、
旧道沿いらしい趣を見せている。(続)



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