
「宿場」には、庶民や公用ではない武士などが利用する「旅籠(はた
ご)」が何軒も建ち並んでいた。その数は「宿場」の規模を位置付ける
もので小規模なら二十軒程度、中規模なら数十軒から多いところでは、
200軒を超える宮宿(尾張)みたいなところもあった。

多くの旅籠は宿場内は街道に沿って、平入りで建てられ間口を揃え、
整然とした町並みを形成していた。
例えば品川宿は北の入口・八ツ山口から目黒川まで辺りが北品川宿、
そこから青物横丁辺りまでが南品川宿で、総延長は2.4Kmもありその
間に戸数1600戸余り、内旅籠の数は93軒を数えたという。

宿場では日暮れともなると「留女(とめおんな)」と呼ばれる女達が、
到着したばかりの旅人を旅籠へ呼び込もうと、盛んな客引きが行われて
いたようだ。
広重の『東海道五十三次の内三十六御油「旅人留女」』や、十返舎一
九の『東海道中膝栗毛』でもその様子がユーモラスに描かれている。

「旅籠」は一泊二食付きが基本で、これは現在の旅館の宿泊スタイル
と同じだ。その「旅籠」には旅人の世話をする飯盛女がいて、「飯盛旅
籠」と呼ばれていた。
しかし飯盛は表向きで、女は泊まり客の相手をする女性である。

いわば幕府が黙認した売春婦のような者であった。
こうしたことから宿内人口は、殆どのところが男より女が多かった。
旅の慰みとして持て囃され、当時の旅行案内書には、宿場毎にその評
判と相場が書かれていたが、このことは宿場を抱える地元経済を支える
大きな柱になっていたようだ。。

街道筋で幕府公認の遊郭が有ったのは駿府(静岡)だけで、それ以外
の「宿場」には飯盛女がいたと言うが、草津・石部・水口・坂下などに
はいなかったとの説がある。(続)(写真は守口:本文とは無関係)
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