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2013-09-05 | bookshelf
北斎席画の大達磨 画:小田切春江
猿猴庵著『北斎大画即書細図』を後に小田切春江が描き改めた

 文化14年に尾張に滞在した北斎は、尾張の有力新興出版書店・永楽屋のバックアップで、どデカい達磨絵を即興で描くというイベントを開催することになりました。どうしてやることになったのか、詳しい経緯はわかりません。北斎の大画即書会は1804年が最初で、地方にもその評判は届いていました。120畳の和紙と大量の墨汁を使うイベントは、藩から墨の販売権を持っていて、美濃和紙の里・美濃出身の永楽屋にとって、宣伝にはもってこいだったのは確かでしょう。
書店に即書会の引札(広告)が貼られている。永楽屋の店先か?

  猿猴庵が描いた画

 大成功だったイベントを余すことなく記した猿猴庵のリポートは、北斎の尾張の門人・墨僊(ぼくせん。月光亭)に書いてもらった序文をつけて、製本されました。それが版本になったのかはわかりません。そして、墨僊がその本を北斎に見せました。北斎は大いに喜び、お礼として即興で描いた「芋の画」を墨僊に託しました。
 本の中には、奇抜な新芸を褒める例えに、屁ひり芸のことを書いた平賀源内の『放屁論』を書名を伏せて記述していました。北斎は、すぐにその意図するところを察し、“屁”につながる“芋”で洒落た、という後日談が、翌年「追加」されて、巻末に北斎直筆の「芋の画」が綴じられました。
 私はこれを見て、北斎にしちゃお粗末な絵だな、と思いました。肉筆画だとこんな稚拙だったのかな?あまりに変に感じたので、よくよく最後まで見てみると、最後に文政8年(1825年)と書かれてありました。実は、猿猴庵オリジナル本をトレーシング・ペーパーみたいに薄い紙に写し取って、裏打ちして製作した転写本でした。作ったのは、『尾張名所図会』の図画を担当した小田切春江(1810年~1888年)という画家です。彼は、猿猴庵の書物を他にも所有していた形跡があり、もし版本で存在していたら、購入していたでしょう。わざわざ精緻に転写したのは、『北斎大画即書細図』は自筆本しか存在しなかったからではないでしょうか。
 コピー機がなかった時代、図画は手書きで写すしかなかったのですから、たとえ版本があったにせよ、北斎の肉筆画は猿猴庵オリジナル私家版にしか綴じられていなかったわけで、小田切春江はオリジナルを借りて写したのでしょう。
 北斎直筆画の付いたオリジナル版は、未発見だそうです。畳120畳大の達磨図も、寺に保管されているのでしょうか?も少し北斎について調べてみました。

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