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before yamato 6

2016-05-01 | ancient history

『倭国大乱と吉野ケ里』 山川出版社 1990年刊
1989年の“古代シンポジウム・倭国大乱と邪馬台国―吉野ケ里とのかかわり”を中心にまとめたもの


 “倭国大乱”について何かよい本がないかと探して、随分情報が古くなりますが↑上記の本を借りて読んでみました。
 ちょうど佐賀県の吉野ケ里遺跡が盛り上がった時期だったのでしょうか、そこから再び興った邪馬台国「九州説vs.畿内説」みたいな討論は、読んでいて辟易しましたが、少しだけ触れられていた“倭国大乱”についての研究者の見解が、自分が思い描いたものと近いものだったので、安心しました。
 邪馬台国については、陳寿が編纂した『三国志』の魏志倭人伝の記述は、魏王朝側の誇張―朝貢してきた東の夷狄(いてき)が大国であればあるだけ自国の威厳が増す―が多分に含まれていると思うので、この国が畿内のヤマト政権に結び付くとは、私は考えられません。邪馬台国は邪馬台国(それが邪馬壱であっても)。奈良盆地で隆盛し“天皇”を創り出した政権を樹立した権力者は、記紀の伝承にあるように、紀伊半島から上陸し奈良県の宇陀を占領して、磐余(現・桜井市一帯)を治めた武装集団のリーダーだったと思います。
 ただし、彼らは熊野から上陸したのではなく、三重県側から川を遡って宇陀へ抜けたのではないかと推理しました。
 そう考えるきっかけになった物は、『日本書紀』の神武天皇の条で、国見丘の八十梟帥(やそたける)との戦いの前に天皇が歌った「カムカゼノ イセノウミノ オホイシニヤ イハヒモトヘル シタダミノ シダダミノ アゴヨ アゴヨ シタダミノ イハヒモトヘリ ウチテシヤマム ウチテシヤマム―神風の吹く、伊勢の海の大石に這いまわる細螺(キサゴ貝という巻貝)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を打ち負かしてしまおう」という歌でした。
 熊野から北上してきたのなら、伊勢の海など縁もゆかりもないはずです。古事記ではこの歌について何も言っていませんが、さすがに舎人親王はまずいと思ったのでしょうか、「大いなる石は国見丘を比喩したものだ」と苦しい説明を付け加えています。
 この後、梟雄兄磯城(たけるえしき)との戦いの際に疲労した兵士を慰める歌「タタナメテ イナサノヤマノ コノマユモ イユキマモラヒ タタカへバ ワレハヤヱヌ シマツトリ ウカヒガトモ イマスケニコネ―盾を並べて、伊那佐の山の木の間から、行ったり来たりして敵を見張り、戦をしていたので、我らは腹が減った。鵜飼いをする仲間たちよ、今助けに来てくれ」が出てきます。伊那佐山を地図で探したら、近鉄大阪線榛原駅の南方に見つけました。近くに国道369号伊勢本街道が通っています。伊勢本街道は櫛田川に沿って松坂市から、あるいは宮川を下って直接伊勢市に繋がります。
 伊勢国にほど近い伊那佐山を「行ったり来たり」できたのは、この軍勢が伊勢国の者か友好関係にあった者だと推測できます。私は伊勢神宮の歴史に詳しくないですが、伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」だそうです。神の住む宮殿。そういえば、三重県の県庁所在地は「津」。何か日本創生の大本が、伊勢湾の三重県側にありそうな気がしてきました。神宮の敷地(外宮、内宮とも)の下には、古代の王宮が埋まっているかも…。もしそうならば、古代日本の歴史の真実は、永遠に解き明かされることはないでしょう。
 
 
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