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folklore accepted as Japanese history 9

2019-02-28 | ancient history

水江浦島子が釣りをした、京都府与謝郡筒川河口の浜
「ウミガメは熱帯・亜熱帯の海に多く分布していますが、アカウミガメなどは対馬暖流に乗って日本海にも回遊し、
まれに丹後の定置網に迷い込みます。」―京都府立海洋センターより


 浦島太郎伝説の基となった水江浦島子の伝承が、日本書紀の雄略天皇時代に記載されているからといって、浦島子がこの時代(400年代後期)の人だったと鵜呑みにはできないようです。
 研究者によれば、古事記・日本書紀が編纂された700年代前後の「むかし」とは、雄略(オオハツセのワカタケル大王)の統治期を想定するのが普通だったそうです。他にも、『日本霊異記』(平安時代初期作。仏教に関する異聞・奇伝を描いた112の逸話を収録した日本で最初の仏教説話集) の小子部栖軽(ちいさこべのすがる)の話が、『日本書紀』雄略七年の条に少子部連スガルとしてほぼ同内容の話で載っていたり、『新撰姓氏録』(815年平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑)の上毛野朝臣(かみつけのあそん)の条にある話で、誉田陵(ほむだのみささぎ)の下で見つけた駿馬と乗っていた馬を交換したら、翌朝その駿馬が埴輪の馬になっていたという物語が、『日本書紀』雄略九年に記載されています。このように、各地にあった伝承が『日本書紀』では雄略期に充てられている、と言われれば、確かにそうです。
 21世紀の現代人が「昔ばなし」を聞いて連想するのが「江戸時代」という感覚と同じでしょうか。江戸時代は長いですが、1700年代として今から300年ほど前。記紀が編纂された700年代から300年遡ると丁度400年代で、倭の五王の時代、仁徳~雄略天皇の巨大古墳が河内地方を中心に作られた時代にあたります。現代では「西暦」という「通年」の観念が当たり前のようにありますが、古代日本には「通年」という観念がありませんでした。歴史書である『日本書紀』も、天皇が交代すると「元年」になり、一見時間はつながっているように思われますが、発掘調査で解った考古学的物証と絡めて読んでいると、設定された時代と内容にかなりの矛盾が出てきます。
 水江浦島子の話は、『万葉集』では場所が変わり、時代も不明瞭になっているそうです。浦島太郎伝説が時空を超えて全国各地にあるのはそのせいで、“伝承”をストレートに捉えてしまうと真実を見誤る、という事がわかりました。
 海幸山幸の物語も、ある特定の時代の一つの出来事を伝えたものではないのでしょう。この物語は九州南部を舞台とする日向神話に組み込まれていますが、神話学者の学説を肯定すると、南の島の海洋民族から伝わった“青年の通過儀礼”が、早い時期から中央のヤマト政権と繋がりがあった隼人によって同族系の豪族(氏)に伝承されて、海人族のクニの共通神話になっていたとも考えられます。その後、各地域に口承されていた別の物語、兄弟間の権力闘争、太刀を潰して鉄製の釣針を製造できる冶金(やきん)技術や潮の満ち引きをコントロールできる力を持っていると誇示するようなプロパガンダ的要素、不老長寿のような神仙思想などを盛り込んで完成した「海幸山幸の神話」が、『古事記』『日本書紀』に取り上げられたと思われます。
 山幸彦は「倭人」、海幸彦は9世紀頃まで完全に中央政府に帰順していなかった「隼人」の象徴で、この神話によって隼人族を支配する大義を示しているのだと思います。本来は海人族のどこの地域にもあった伝承を、隼人のクニがあった日向(ヒムカ)に設定したのは政府の目論見でしょう。そして、その骨子になっているのが、丹波国(タニハ)の水江浦島子の伝承だと推測しました。
 浦島子の伝承も、丹波地方限定ではなかったかもしれませんが、大海人皇子(天武天皇)が丹波の伝承を選んだのにも、彼が海人族の凡海氏(おおしあま/おおあま)に養育された事に関係があると思います。
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