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the gap between Japanese mythology and ancient history 1

2017-08-29 | ancient history

 日本海沿岸地域に点在する四隅突出型墳丘墓や、古代出雲期に埋蔵された銅鐸や銅剣が出土した「荒神谷」と「加茂岩倉」遺跡などを訪ねて、「ヤマト政権以前の日本」はどういうものだったのか知りたくなりました。
 といっても、最古の公的歴史書である『日本書紀』に書かれている500年代初期(欽明天皇)より前の記述は、全否定ではありませんが事実とは認められないので、中国・西晋代200年代末期の『三国志』に書かれた魏志倭人伝しか記録がありません。そこからは、卑弥呼に象徴されるようなシャーマニズム・アニミズム的社会生活が読み取れます。200年代弥生時代後期の日本は、「神の存在」(を信じること)によって統合されていたのだと思います。その後、ヤマト政権のような新興勢力は「神の存在」を利用することによって、民族を統一していきました。
 「神の存在の利用」が、『古事記』や『日本書紀』に記される神代=日本神話ではないでしょうか。しかし、古事記に書いてある神話と日本書紀に書いてある神話は同じではないですし、古事記の中で「出雲での出来事」として書かれている神話が、ご当地『出雲国風土記』に出てこないという矛盾があります。では、日本神話はヤマト政権が創作した昔話なのでしょうか。ならば、神代記は誰が創作したのでしょうか。そこで『古事記』の神代記を読み返してみました。
 まず、神様が数人ずつ現われます。各神様には現代人には難しい名前がついています。それらの神様にはそれぞれ固有の力が割り当てられています。神様の中にはその後活躍をする神様もいれば、現れてすぐどこかへ隠れ、その後一度も活躍しない神様もいます。かと思えば、突然現れて威厳を持つ神様もいます。これら大勢の神様の名前を考えるだけでも大変な作業です。
もし600年代に古事記の神代記を創作した人がいたのなら、紫式部も真っ青だと思います。ですから、古事記に書かれた神話は、元々各地に伝承されていた物語だったと憶測されます。
 『古事記』にはその成立を記す「序文」が残っています。この序文を「後世の偽書」とする研究者もいますが、その問題はひとまず置いておいて、序文を書いた太安万侶が云う所の「和銅四年九月十八日を以って、わたくし安万侶に仰せられまして、稗田の阿礼が読むところの天武天皇の仰せの本辞(先代旧辞)を記し定めて献上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に従って、こまかに採録いたしました。」を受けて、稗田阿礼について調べてみました。
 和銅四年というのは711年、『古事記』編纂が完成する前年です。「序文」を時の天皇・元明天皇に提出したのが和銅五年正月二十八日となっているので、太安万侶が稗田阿礼から伝えられた古い記録(古代の古代史。皇族以外の諸家が代々伝えている神話や伝説、皇族の系譜の記録など)を文字に書き起こして編集した期間は、4ヶ月くらいという案外短期間の作業でした。そのくらいで完成させることができたのは、安万侶が編纂する以前に、稗田阿礼のところで既に大方の物語ができていたと考えられます。
 太安万侶の序文に拠れば、天武天皇(大海人皇子)が「諸家に伝わっている『帝紀』と『本辞』には、虚偽が加えられている。国家の根本、天皇政治の基礎となる『帝紀』『本辞』を調べて、虚偽を正して後世に伝えたい」と考えて、舎人の稗田阿礼(当時28歳)に『帝皇日継(すめらみことのひつぎ)』と『先代旧辞(さきつよのふること)』を誦(よ)み習わせた、と伝えられていて、稗田阿礼という人物が天武天皇期(673年~686年)に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみのはらのみや)に出仕していた事がわかります。
 この時28歳だと年齢まで明記されているので、太安万侶に『本辞』を伝えた頃は50~60歳代になります。『続日本紀』に太安万侶の位階が記してあり『古事記』完成後出世もしているのに対して、稗田阿礼という名は『続日本紀』に(もちろん『日本書紀』にも)出てきません。出てくるのは、太安万侶が書いたとされる古事記の序文中のみです。
 天武天皇に大抜擢され、その存在は元明天皇にも伝えられていた(少なくとも25年間)ほどの人物ではあったものの、一生無位の舎人(出世しなかった下級官人)で終わったのでしょうか。


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