スターアニスの 『大和路 里の光彩』

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「磯城における古墳時代遺跡」セミナー

2007-10-28 11:51:33 | 出来事


昨日は、桜井市立埋蔵文化財センターで催された「ヤマト王権はいかにして始まったか」の講座に参加してきた。
田原本町と桜井市の教育委員会、(財)桜井市文化財協会の共同企画事業として、9月から10月にかけて催されている講座で、「磯城の古墳時代遺跡・後編」について文化財担当職員を講師としたセミナーである。

 「考古学ファン」と思われる方々約50名に混じって聞かせて貰ったが・・・難しくて・・・ 

昔の磯城郡(桜井市・田原本町)において、数多く発掘されている弥生時代から古墳時代の遺跡についての調査結果を通じて、「ヤマト王権」を解き明かそうというわけである。

最終回の今回は、古墳時代における発掘遺跡が中心。
古墳時代は、前期(3c~4c)・中期(5c)・後期(6c)・終末期(7c)に分けることが出来、それぞれの年代の特徴を発掘した遺跡から分かったことを話されていた。

<古墳時代における遺跡の特徴>
●前期(3c~4c)・・・・青銅の「鏡」が造られていた。
●中期(5c)・・・・・・・武器、馬具、甲冑が造られていた。大量の鉄、金工技術の発達が窺える。
              大陸からの影響を受ける。
●後期(6c)・・・・・・・横穴式石室の登場。 家族と同じ室に埋葬する。
●終末期(7c)・・・・・・方墳の登場。(6c迄は前方後円墳であった。)



興味のあったことについて、いくつか紹介します。

下記の「畿内主要古墳編年表」を見ても分かるとおり、古墳時代・前期に、大和地方から河内(難波)地方に古墳造りが移っている。
河内(難波)に造られた理由としては、騎馬の風習を持つ勢力が攻めてきたのでは・・・と言われているが、この当時の大和地方の遺跡からは「馬具」や「馬に関するモノ」が発掘されていないため、この説は当らない。

また、九州方面の勢力が、大和の手前の河内や堺に政権を構えたのではないか・・・とも言われているが、考古学的な連続性見地から見ても、古墳作りだけが緩やかに大和から河内(難波)に移ったと考えるのが自然である。
当時は、河内(難波)も含めて大和の政権範囲であったと思われる。

古墳時代前期(3c~4c)の纒向(まきむく)遺跡では、20~30mくらいの埋蔵古墳(平坦なところに石棺を置き、その周囲を掘り、その掘った土で石棺を覆いさらに高く積みあげ古墳にしたもの)が多い。
それらの古墳は、田圃や畑にするため石棺の周囲が埋め戻されたため、盗掘されずに遺跡がそのままの形となっているのだ。

古墳時代中期から後期に変わったのは、古墳の大きさである。
前期~中期には100m~300mだったものが、後期になると30~40mとなり、古墳の大きさが小さくなった。

これは天皇の命により、古墳の大きさ規制がおこなわれたものと思われ、前方後円墳の前方部が短く、ホタテ貝型と言われている。これは茅原(ちはら)古墳や小立(こたて)古墳にも見られる。

しかし、古墳の大きさは小さくなったものの、権力は持っていた。
これは、池ノ内古墳に見られ、小規模であるが官僚的役割を担った発掘物の副葬品(鏡・腕輪・鎧・鏃・斧など)からみても明らかであるとか。

古墳時代終末期の敏達天皇までは前方後円墳であったが、用明天皇以降の崇峻、推古においては「方墳」に変わり、舒明天皇においては八角墳になっている。
方墳に変わったのは、中国の影響を受けたためと思われ、以降も立派な墓を造ることはなくなったのである。



2ケ月前から予約して、ヒゲ面の風貌からして「考古学ファン」と思われる方々に混じって聞かせて貰った。
これらの方の質問内容も、かなり専門的(?)と思われるが、コチラはチンプンカンプン。
やはり難しい。ついて行けない。

今住んでいる土地や近くの地名が、次々と出てきて、その土地名と古墳名・遺跡名・天皇名・豪族名などとの繋がりが面白いのだが・・・。
悲しいことに、昔の土地名と現在の地名がつながらず、ついていけない。
まずは、土地名のルーツをマスターすることからせねば、理解出来ない。
今度は、勉強してからということで・・・・。


当日、配布された資料から・・・ 
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (なりちゃんじいじ)
2007-10-28 12:59:09
こんにちは
勉強しておりますネ、かなり高尚なお勉強のようですが何回か参加しているとそのうちわかってくるのはないですか?私は鎌倉の史跡めぐりで話を聴くんですが右から左に抜けていきます。特に人の名前・執権何とか、誰の孫娘に当たるとか、??天皇、??のお坊さん壊れた脳内メモリーには入りません。100個のうち1個が残ればいいと思っております
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Unknown (のび太)
2007-10-29 08:03:13
お早うございます。
ずいぶん難しい勉強を・・・のび太は古墳?を見たことが無く興味が湧きますが、現地で古墳そのものを目の当たりにすれば、更に興味深いものがあるでしょうネ。 宮内庁が管理している未発掘の古墳も在るやに聞きますが、なかなか発掘許可もおりないようで、中国のような歴史を紐解く新たな発見が進めばとロマンをかきたてられます。
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Unknown (ヒキノ)
2007-10-29 08:47:04
歴史の話、面白いですね。邪馬台国は九州か近畿かなんて話したら1日がかりでも結論は出ません。見た来た人はいないのですから見てきたようなウソ話でいいのです。ロマンだなぁ~。
黒岩重吾の大和の古代を巡る小説や随筆は面白いですね。あの人は旧制宇陀中学の出身だそうです。
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Unknown (るな)
2007-10-29 16:48:07
●スターアニスさん、知識の秋ですね。
ずいぶんお勉強されていますね。
わたしは、歴史が(も)さっぱり分からず、
ちんぷんかんぷんのままですが、知れば知るほど
おもしろそうな世界やなあと、それだけは感じています。
わがブログには、ずいぶん博識の方がおいでくださっており、
たずねていく先で、思わぬ刺激を受けています。

古墳で遊んでいた子ども時代、なんて
なかなかいいですね。


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