比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
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満蒙の国から決死の逃避行・・・流れる星は生きている・・・新田次郎の奥さん藤原ていの遺書

2016-08-29 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

いまから71年前の8月は、米軍爆撃機により6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が旧満州国(現中国東北部)への進攻を開始、15日に日本が連合国側からのポツダム宣言を受諾して無条件降伏・・・日本が戦争に敗れた日。

もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。
日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。

その婦人の名は藤原てい・・満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸

諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。

    藤原てい「流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
        20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作詞した日本兵も終戦間際に戦死したそうです

        わたしの胸に生きている
        あなたの行った北の空
        ごらんなさいね 今晩も
        泣いて送ったあの空に
        流れる星は生きている


戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。

流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性。

※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊



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比企の里の・・・夏を彩る・・・東松山の花火2016

2016-08-28 | 比企の丘から

2016年8月28日(日曜日)、台風の迫る雨の中、東松山の花火。フォトポイントは都幾川左岸堤防の法面で。
※マニュアルモード、マニュアルフォーカス∞、、絞りF8、S・Sバルブで適当に。

※画像をクリックするとズームアップします。



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2016年オオタカの森の物語・・・若鷹が・・・赤松の枝で羽ばたく

2016-08-27 | 生き物大好き
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2016年・・・オオタカの森・・・雛たちの巣立ちのとき。
巣離れしたオオタカ若たちが赤松林の中を飛びまわっています。

※画像をクリックするとズームアップします。

飛びだしそうで・・・飛びださない

風切羽と尾羽の裏の黒と白・・・モノトーンのボーダー柄が好きだ
※撮影日は7月31日。
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2016年オオタカの森の物語・・・若鷹が・・・クヌギの森で憩う

2016-08-25 | 生き物大好き

2016年・・・オオタカの森・・・雛たちの巣立ちのとき。
若鷹がクヌギ林の中を飛びまわっています。

羽繕い・・・ホッとするひと時です。




※撮影日は7月31日。


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夏の信州の食物詩・・・白ウリ・縞ウリの粕漬け

2016-08-24 | 美味しいブログ

お盆の墓参り・・・送り盆をすませて8月16日に帰宅。
近くの山・・・湯の丸高原や池の平湿原か・・・霧ヶ峰、美ケ原・・・に行きたかったが・・・雲がかかっている。行っても霧の中だ。
山花やアサギマダラやクジャクチョウ、キベリタテハにも逢いたかったがザンネン
地元スーパーで野沢菜、地酒など買う。白ウリ縞ウリが目にとまる。信州の夏の食物詩・・・白ウリ・縞ウリの粕漬け(標準語では奈良漬けという)の素材です。
懐かしかったのでこれを仕入れて粕漬け作りに挑戦することにした。

白ウリ2本、縞ウリ2本、計4本を半割にしてさらに2つに切って、合計16舟の塩漬けです。
塩分は8%~20%、保存場所、保存期間によって違う。冷蔵庫で保存できる今、塩分は少なめでも可だろうと思う。

重量の2倍の重石、水が上がったら重石を半分に。1週間漬けて水気を切って(少し風干し).
重量と同量の練り粕、30%のザラメ糖で漬け込む。ザラメでなくてミリンで漬け込む方法もある。

信州の伝統野菜」認定の白ウリ、縞ウリです。

器が小さかった もう少し大きいタッパーに入れ替えて、冷蔵庫で半年くらいか。

どんな味になるかわかりません・・・半年後が楽しみです

白ウリ、縞ウリ・・・長野県以外ではスーパー、八百屋さんでは見かけません。
練り粕・・・長野県以外ではスーパー、食料品店では板粕は売られていますが練り粕は見かけません。信州ではこの時期、練り粕は目玉商品で売られています。
沼目しろ瓜(須坂市)、松本しろ瓜(松本地区)、本しま瓜(飯田、下伊那地区)で古くから栽培されていたもの。長野県では1991年より「信州の伝統野菜」認定制度を設定してこれを認定しています(2016年現在75種)。
※以前は自分の畑で作っていたので、南信地区は縞瓜、他の地区は白瓜と明確に線引きされていました。今は2種類の瓜がスーパーなどで売られるようになり、こうして2種類の粕漬けが作られるようになりました。味は同じかな?微妙に違うのかな?
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2016年オオタカの森の物語・・・若鷹が・・兄弟仲良く

2016-08-23 | 生き物大好き

2016年・・・オオタカの森・・・雛たちの巣立ちのとき。

巣のそばの赤松の枝に飛び移った若鷹が2羽。親鳥の運ぶ餌を待っていいます。

巣から離れた枝に飛び移れるようになりました。まだ自分で狩りをすることができないようです。

赤いベロが見えます。
※撮影日は7月29日。
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夏の信濃路・・・塩田平・・・生島足島神社の大鳥居と・・・独鈷山

2016-08-22 | 信濃の国は
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夏の信州…塩田平・・・上田市下之郷の農道を跨いで建つ生島足島神社の大鳥居。その向こうに雲に隠れて塩田平の象徴・・・独鈷山
ここは生島足島神社から北東(鬼門)の方向。御旅所社山宮社、小牧山地の東山(694m)とを結ぶ御柱街道とも呼ぶ神の道。
※撮影は8月15日。
※説明書によれば・・・この大鳥居は明治時代中期に建立されたもの。1974年に農業構造改革計画により道路が付け替えられ、現在の地に移転、1985年老朽化により建替え、1987年浅間テクノポリス開発計画でさらに道路計画が進められ再度移転することになり、従来の木造から鉄筋コンクリート製で1990年に再建された・・・だそうだ。説明板の文字がかすれていてよくワカラナイ。

※信州塩田平の生島足島神社(イクシマタルシマ)・・・延喜式(967年発行の六法全書、税務台帳、地名事典みたいなもの)に記された式内大社。主祭神は生島(生みの神)、足島(満たす神)の2柱。出雲系の建御名方神を祭神とする摂社諏訪神社がある。 建立は定かではないが延喜式に記されているということは大和王朝時代から律令制時代?。神橋を渡って神池の中の本殿に。この形式を「出雲式池心宮園」という。本殿は床板もなく土間だけ。大地そのものが霊であるという哲学。
※撮影日は2008年8月15日。
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夏の信濃路・・・「上田 道と川の駅」に復元された・・・「半過」円形古墳

2016-08-21 | 信濃の国は

上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

夏の信濃路・・・「上田 道と川の駅おとぎの里」と垂直100mの大岩壁「半過岩鼻」です。
「道と川の駅」のそばの千曲川の畔には「半過公園」、「岩鼻」の上には「千曲公園」が。
※写真をクリックすると「岩鼻」の大きな写真になります。

2005年、千曲川の左岸、半過岩鼻の岩壁の中を二つのトンネルが貫通、2010年に県道77号線に並行して国道18号線上田―坂城バイパスが開通。トンネルの南側の上田市小泉字塩田河原地籍に「上田 道と川の駅」が開設。

道の駅」の一角に、↓の写真のように小さな円形古墳があります。2006年から2007年の国道工事の際に上田市上半過地籍から出土した古墳群の中から第10号古墳を復元移動したものです。

直径7m、高さ1mに満たない円墳。

5人の人骨、フラスコ型の須恵器、鉄剣、土器、ガラス球の首飾り、銅製の耳飾り・・・などの副葬品が。副葬品が多く出土している?・・・急傾斜、崩落しやすい脆い地質で、埋もれていたため盗掘にあわなかった?

出土したのは上半過の二つのトンネルのあいだあたり、中の沢遺跡、半過古墳群と名づけられました。出土品は弥生時代から古墳時代後期まで。
「上田道と川の駅」の芝生の中にポッコリとした小山があります。ダミーですが私たちの古い古いお先祖様のお墓です。ぜひ拝んでやってください。

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信州上田の夏・・・蓮フェスタIn信濃国分寺

2016-08-21 | 信濃の国は

上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

信州上田の信濃国分寺です。奈良時代の「天平年間」・・・信濃国上田に建立された信濃国分寺、平安時代中期の「承平の乱」(平将門の乱)で焼失したと伝えられ、そのご再建されたのが現在の国分寺。建立はいつの時代か不確か・・・建築仕様から室町時代の建立といわれます。

信濃国分寺の北側、境内の外にある「蓮池」です。



一蓮托生」という言葉・・・仲間たち皆であの世に行っても仏様の座る蓮のうてなに座ろうよという意味ですが。
※撮影は7月16日
※蓮池は当寺の住職と「信濃国分寺はすを育てる会」が休耕田を利用し育て上げたもの。
※「蓮フェスタin 信濃国分寺」は毎年7月の大3日曜日に開催。
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夏の信濃路・・・お先祖様といっしょに・・・御神酒をいただく

2016-08-20 | 美味しいブログ

8月15日、信州上田・・・塩田平のお盆の夜・・・お先祖様が召し上がる御神酒のお相伴です

御神酒」は信州安曇野・池田町の大雪渓酒造㈱(1898年創業)の「大雪渓」本吟醸。麦酒は「信州づくり」。

お盆
」とはお先祖様が帰った夜にともにお盆の上の御馳走を食べる行事のことだそうです


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信濃路は・・・月と仏と・・・おらが蕎麦・・・十割蕎麦を食べる

2016-08-20 | 美味しいブログ

十割そばです。

上田の蕎麦屋さんです。
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夏の信濃路・・・JR東日本・・・篠ノ井線最高標高地点の・・・冠着(かむりき)駅

2016-08-19 | 鉄道・駅の風景

7月12日、姨捨駅あたりから林道を通って一本松峠を越えて長野県東筑摩郡筑北村の冠着駅(かむりき)に。
上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

JR東日本、篠ノ井線・・・冠着駅舎です。
標高676m。篠ノ井線の最高地点駅。長野県のほぼ中心を南北に縦断する筑摩山地のど真ん中。

JR東日本長野カラーの211系普通列車甲府行き、中学生二人が乗車。
1日の乗客77名。運行は1時間に上り下りで各1本平均。
※撮影日は7月12日。
冠着駅・・・1937年冠着信号場として開設。1945年冠着駅に格上げ。冠着トンネルを南に抜けたところにある信号所であったことから筑北村坂井の中心地区からかなり離れた山の中にある。旅客駅に昇格するときなぜ坂井村の中心部に駅舎を移動しなかったのか? 通勤・通学者のため大きな駐車場・駐輪場がある。
※駅名の由来は・・・更級郡と東筑摩郡の郡境にある冠着山(別名姨捨山1252m)から。
冠着(かむりき)は神話の人物の手力男命(たじからおのみこと)がここで冠を着け直した・・・だとか?
冠着トンネル・・・1900年開通、当時日本一の長さ2656m、勾配25‰、SL時代にその煤煙は乗客を悩ましたが運転手にとっては窒息の危険のある難所で排煙のためさまざまな設備が施された
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夏の信濃路・・・姨捨の棚田の・・・またその上の・・・八幡大池の棚田

2016-08-18 | 信濃の国は

夏の信濃路・・・長野県千曲市八幡大池といっても・・・?・・・何処にあるのか?
わかりやすくいえば「田毎の月」で有名な姨捨山あたり。明治年代前までは更級郡大池新田。
JR篠ノ井線姨捨駅あたりから国道403号線(北国西脇往還)で、途中で林道に入り千曲高原大池方面に登っていくと、こんな風景が・・・
上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。

千曲市八幡・・・大池の棚田(標高約700m地点)です。

峠から 棚田見守る 石ほこら
※撮影日は7月12日。
姨捨の棚田(標高400m~550m地点)からさらに上にある棚田です。圃場整理してあります。昔からの棚田ではないようです。
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夏の信濃路・・・千曲市八幡の・・・武水別神社にお詣りする

2016-08-18 | 信濃の国は

8月15日、千曲市八幡の武水別神社(たけみずわけじんじゃ)にお詣りしました。
武水別神社・・・創建は第八代孝元天皇の時代といいますが定かではありません。主祭神の武水別大神は千曲川水系の水の氾濫を鎮める神様か。明治以前は八幡宮・・・祭神は誉田別命(応神天皇)、村の名前も八幡村。今でも土地の人は「やわたのやわたさま」と呼んでいるようです。
千曲川の左岸、千曲市八幡の市街地。長野県道77号線(長野~上田線)が正面の大鳥居にブチあたる。つまり県道と参道がセットになって門前町のようになっている。県道はそこで左にクランク状(鍵曲り)に曲がって境内の西側を北に向う。境内の東側は千曲川の支流の更級川。

大鳥居から100m以上続く参道です。社叢は長野県指定天然記念物。

境内は奥行250m弱、巾80m弱、約19000㎡。

舞殿

拝殿

本殿

長野・上田間を通るとき渋滞を避けて通る道、通過するだけのお宮様でした。いちどはお詣りしなければと思っていました。ようやく実現しました。
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夏の信州・・・川中島の古戦場近く・・・JA長野川中島共選場で・・・白桃を買う

2016-08-17 | 信濃の国は

8月15日、桃の収穫の最盛期・・・JAグリーン長野・・・川中島共選場の直売所。いまが旬のモモのハネ出しを買いに行って来ました。
朝いちばん、開所1時間前に来たつもりが長い行列です・・・日差しがキツイ

9時開場ですが少し早くオープンしてくれました。
売り場へは行列の10人くらいを順番に誘導、3回待ちぐらいで入場。

1人3箱まで・・・2人で行きましたから6ケースまで。1箱(8個~12個)500円~700円。

今日は早く来たので、行列に並んでから40分ぐらいで買い出し終了。

※情報検索は→クリック→JAグリーン長野―川中島共選場
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