比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
拙ブログの記事のリンク、写真の転用はご自由に。

関門海峡・・・下関クラシック建築群を歩く

2016-07-28 | 道をゆく 山陽道・山陰道

彩の風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
関門海峡を渡って下関市・・・1875年開かれた国際港です。
1901年英国領事館が開設、1905年対外貿易商社秋田商会開業、大いに賑わった。
・・・彩の風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

国指定有形文化財旧英国領事館
1901年英国大使ア―ネスト・サトウの具申で英国が下関市赤間町に領事館を仮設。1905年下関市唐戸町に新領事館を建設。
1941年閉鎖。1954年下関市に移管。2014年市民館、市民ギャラリー、「カフェレストラン英国館」としてリニューアル・オープン。

国指定有形文化財南部町郵便局
1900年赤間関郵便電信局(現下関東郵便局)として現在の地に建設。1975年下関東郵便局の移転に伴い、南部町郵便局に。、
現役の郵便局建造物として日本最古。2001年国の重文に指定され、カフェバー「多羅葉」が1Fの一部と中庭に。ライトアップ。

旧秋田商会・・・現下関観光情報センター
1915年建築、屋上に設けられた日本家屋と日本庭園は日本最古・・・だそうだ。秋田商会は1905年創立の貿易商社、主に木材、海運業。
※撮影日は2016年5月30日。カメラはCanon PowerShot G7X。
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JR九州の旅・・・鳥栖駅・・・中央軒の「かしわうどん」&ごぼ天

2016-07-27 | 美味しいブログ

わたしが旅したのではありません。彩の風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
・・・彩の風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

鳥栖駅・・・九州の鉄道路線のハブ的存在の駅。鹿児島本線、長崎本線、佐世保線、久大本線の全列車が停車します。
かつては操車場、機関区、貨物コンテナターミナル・・・鳥栖は鉄道の街です。

鳥栖駅6番ホームの中央軒かしわうどん・・・トッピングはごぼ天

わたしが食べたのではないが・・・美味そうだ
※撮影日は2016年5月29日。カメラはCanon PowerShot G7X。
中央軒・・・1889年鳥栖駅開業の3年後の1892年(明治25年)構内で弁当立売開業、1956年(昭和31年)うどん立売開始。駅構内に4店舗、何故か5・6番ホームのかしわうどんが一番うまいという伝説が(味は同じだそうだ)。廉い・早い・美味い。鉄道の分岐点の食の文化史。
鉄道の分岐点に美味い立ち食い、駅弁あり・・・今は鉄道の模様がかわって懐かしくなったが、中央東線・中央西線の分岐点塩尻駅の立ち食い信州蕎麦、分岐点ではないが電気機関車の増結を行う信越本線横川駅の「峠の釜めし」、直流・交流用機関車の付け替えを行う東北本線黒磯駅の「九尾すし」など。
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JR九州をゆく・・・鳥栖駅で撮り鉄…JR九州近郊区間電車813系

2016-07-27 | 鉄道・駅の風景

わたしが旅したのではありません。彩の風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
・・・彩の風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

鳥栖駅・・・九州の鉄道路線のハブ的存在の駅。鹿児島本線、長崎本線、佐世保線、久大本線の全列車が停車します。
かつては操車場、機関区、貨物コンテナターミナル・・・鳥栖は鉄道の街です。

門司港駅と鳥栖駅を結ぶJR福岡近郊区間電車・・・813系電車。
※撮影日は2016年5月29日。カメラはCanon PowerShot G7X。
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北九州の近代建築群を歩く・・・福岡市天神あたり

2016-07-26 | 道を行く 九州の諸道

彩の風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
旅のはじまりは福岡市内のクラシック建物から。
・・・彩の風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

福岡の中心地・・・福岡市中央区天神・・・日本銀行福岡支店・・・
古代ギリシア・・・イオニア式の円柱(・・・だそうだ)・・・堂々たる銀行建築・・・
あの大戦後の6年後の1951年に竣工された比較的新しい建造物です。

※九州で最も古い日銀支店は1893年に門司で日銀西部支店として開業。西部支店はそのご門司支店→北九州支店に。
1917年日銀熊本支店が、ようやく日本銀行が福岡に支店を開設したのは1941年のこと、1951年現在の建物に。


旧日本生命九州支店・・・現福岡市赤煉瓦文化館、文学館
1909年竣工、設計は東京駅で有名な辰野金吾、国指定重要有形文化財。
※撮影日は2016年5月28日。カメラはCanon PowerShot G7X。
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「とと姉ちゃん」・・・「暮しの手帖」・・・大橋鎭子と花森安治

2016-07-25 | 読書・テレビ・映画

NHKの朝のテレビ小説「とと姉ちゃん」が視聴率25%を越えて好調なんだそうです。
暮しの手帖」社の創業者大橋鎭子さんをモデルにしたドラマのようです。
※何10冊と有った「暮しの手帖」・・・あるとき、図書館のリサイクル本として出してしまいました。
 今日、図書館で幾冊かの「暮しの手帖」関係の本を借りてきて読んでいます。


テレビドラマの主人公小橋常子さん・・・「暮らしの手帖社」の創業者大橋鎭子さんがモデル。編集長の花山さんは創刊からの編集長花森安治さんがモデル。

大橋鎭子著「暮しの手帖とわたし」(2010年刊)、暮しの手帖別冊「しずこさん」(2016年5月刊)。

《ネタバレのようですが》
大橋鎭子(1920~12013年)・・・東京府立第六高等女学校(現都立三田高校)、下級生に石井好子、日本興業銀行入社、社内用の広報誌「調査月報」の編集を(このときの活字の指定の仕方やレイアウトの組み方の経験が後に役に立ちます)、向学心から銀行を3年で退社、日本女子大学に入学、病気のため中退、日本読書新聞入社、ふたたび活字の仕事の世界に、編集者に柴田錬三郎が、川端康成のところに原稿をとりに行ったことも(これが後に役に立つ)。日本出版文化協会出向、上司に後の時代小説家南条範夫。やがて敗戦。敗戦の翌年に自分で出版社「衣裳研究所」を立ち上げます。
花森安治(1911~1978年)・・・東京大学文学部、「帝国大学新聞」編集部、卒業後パピリオ宣伝部に、上司に画家、デザイナーとして有名な佐野繁次郎、広告デザイン、広告コピー、レタリング(文字デザイン)、挿絵、色彩感覚など大いに感化される。軍隊に応召、満州で肺結核に、除隊。大政翼賛会傘下の広報組織に、国策広告、標語などの仕事に。敗戦、日本読書新聞の挿絵など。旧制松江高校時代からの親友の日本読書新聞編集長の紹介で大橋鎭子さんの立ち上げた出版社の編集長に。稀代の鬼才、奇人、変人。「暮しの手帖」の表紙イラストは創刊から死の直前まで花森さんが描いたものでした.

ふたりは車の両輪・・・衣裳研究所発行の「スタイルブック」は1948年「美しい暮らしの手帖」に、1951年暮しの手帖社に社名変更、1953年「暮しの手帖」に。
この雑誌の底に流れていたコンセプト(基本信念)は何だったでしょう。

戦争中の暮らしの記録」保存版・・・写真は1986年8月(第10刷)刊行のもの。
1968年8月に刊行した「暮しの手帖」の特集号を上製本使用にして1969年8月15日に発行。

戦争中の暮しの記録」巻頭のグラビア写真・・・東京大空襲。
空いっぱいにひろがる焼夷弾・・・一夜で焦土と化した東京・・・とにかく生きていた・・・そして戦争の終った日。

文章など書いたことのない普通の人の綴り方による戦争体験の証言記録。貴重なアーカイブです。
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7月の庭からの贈りもの・・・トマトがたわわに

2016-07-25 | 比企の丘から

トマト・・・狭い庭ですが道路との境のフェンスに沿って8株植えました。順調です。
すべてミニトマト…大玉トマトは農家の直売所で買っています。






イタダキマス

脇芽を挿し芽しておいたのが発根しました。
食べられるほどに成長すればよいですね。
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7月の庭からの贈りもの・・・茄子・キュウリ・・・順調です

2016-07-24 | 趣味の園芸

梅雨明け間近か・・・庭の野菜・・・順調です。








ゴチソウサマ


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NHK朝のテレビ小説「とと姉ちゃん」・・・「暮しの手帖」・・・その時代

2016-07-22 | 読書・テレビ・映画

NHKの朝のテレビ小説「とと姉ちゃん」が視聴率25%を越えて好調なんだそうです。
暮しの手帖」社の創業者大橋鎭子さんをモデルにしたドラマのようです。
暮しの手帖」・・・結婚してからふたりでずっと愛読していた雑誌でした。
役に立った情報誌です。食器、調理用品。献立、家具・・・全部が全部でないけれど考え方も含めて参考になりました。
例えば全自動洗濯機、ウチでは二漕式から切り替えるのは早かったと思います。機能より家事の省力化です。

今も使っている飛騨の家具・・・もうウン10年でしょうか。書棚と椅子はメーカーが違います。
チョッと高価だったけれど、貧しかったけど・・・このくらいの贅沢ユルしてと購入しました。

※何10冊と有った「暮しの手帖」・・・あるとき、図書館のリサイクル本として出してしまいました。
 今日、図書館で幾冊かの「暮しの手帖」関係の本を借りてきて読んでいます。

 その話は続きで…
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梅雨明けはもうすぐ・・・豊後梅のサシス漬け・・・できあがりました

2016-07-22 | 美味しいブログ

梅雨明けはもうすぐ・・・猛暑がやってくる?
6月11日に仕込んだ豊後梅の「サシス漬け」・・・途中で赤紫蘇を投入、もう食べられます。
塩分10%、酢40%、砂糖30%、従来の梅干しより塩分が少なく酢、砂糖で味付けしてありますから食べやすい。
赤紫蘇を混ぜる前に余分な梅酢をビンに入れて酢の物などの料理に使います。
同じ日に漬けた「梅の砂糖漬け」も食べごろ。

参考レシピ
※2016年6月11日のブログ・・・クリック「梅雨のシーズンには・・・梅干しを漬ける・・・今年はサシス梅干し」
※2010年6月27日のブログ・・・クリック「信州の田舎風・・・梅の砂糖漬け」 
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7月の庭からの贈りもの・・・夏野菜・・・トマト・きゅうり・茄子

2016-07-21 | 趣味の園芸


夏野菜が・・・ようやく順調に採れはじめました。
地産地消‥・自産自消・・・です。
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永六輔さんが・・・「遠くに行った」・・・

2016-07-20 | ニュースから

永六輔さんが「遠くに行った」・・・

TBSラジオ永六輔の誰かとどこかで、土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界
今も・・・スイッチを入れれば、あの舌足らずの発音のおしゃべりが聞こえてきそう。


永六輔(1933~2016.7.7)・・・東京は元浅草の最尊寺の住職の子として生れる、本名永孝雄、祖先は江戸初期に中国から渡来した学僧、祖父、父は姓を「ヨン」と名乗っていて、本人は在日外国人17代目といっていたそうだ。日米大戦の敗色濃厚な1944年、小学生の時に長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)に疎開、1946年旧制上田中学校入学、1947年東京に引揚げて旧制早稲田中学校へ。1952年早稲田大学中退、放送作家の道に。元放送作家、元作詞家、随筆家、放送パーソナリティー・・・多彩な顔を持つテレビ草創期から現在に至るまで主として電波を通して活躍したタレントでした。
戦中、戦後に東京の下町で育った焼跡派、江戸っ子気質、そのため言っていることは筋が通っていましたがいろいろ物議をかもしたオジサンでした。さんが作曲家の中村八大いずみたくと組んで作った日本の歌・・・100年200年続くような曲があります。
上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」「おさななじみ」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」・・・


遠くに行きたい」・・・自分の知らない世界を歩いてみたい・・・新しい自分が生まれる・・・永さんのライフテーマだったかも。

永さんは学生時代に民俗学者宮本常一に惹かれていたそうです。宮本常一は日本中を隈なく歩いて日本人の原点を探り続けた人です。そんな彼の心を継いで仕事の合間に旅を重ねた永さん。旅とは人とのふれあい、その土地の空気を吸うこと。
さんがいずみたくデューク・エイセスと組んで作った「にほんのうた」シリーズの「東京」。
君の故郷は」の一節・・・・・・「東京編」ですがなぜか田舎への憧憬です。。
     教えてくれ君のふるさとを
     聞かせてくれ昔からの歌を
     御先祖様の
     墓の見える畠
     泥にまみれるおふくろ
      教えてくれ君のふるさとを 
      東京にはない土と空の話を


※写真は7月17日AM9:00TBSテレビ「サンデーモーニング」から。

2011年3月11日東日本大震災、2011年3月12日福島第一原発で水素爆発、そのときラジオで永六輔さんがこうトークしていました。

天災は言いようのない悲しみ。
 人災は言いようのない怒り。
 


縄文人さんから「徹子の部屋・・・永六輔さんと大橋巨泉さんとの対談」のYou Tubegaがコメントで送られてきました。
https://www.youtube.com/watch?v=BaKdlIuYmx4
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信州・・・上田で・・・さくら丼を食した

2016-07-16 | 美味しいブログ

7月7日、ランチタイムに上田駅あたりに来ました・・・「ハラがヘッタ

うどん屋さんのサクラ丼
サクラといっても馬肉丼です。

廉い、早い、美味い・・・イタダキマシタ

※4月30日、テレビ東京放映の地域密着型情報エンタテーメンㇳ「出没!アド街ック天国信州上田」で紹介されていた上田駅のそばのうどん屋さんです。
創業は明治21年(1888年)。いまから128年前、上田駅が開設された年です。。老舗です。。
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比企の里の歴史街道・・・鎌倉街道上つ道・・・笛吹峠から木曽義仲ゆかりの大蔵へ

2016-07-15 | 比企の丘から

7月11日、友だち夫妻を誘って嵐山町の中世の城址、菅谷館跡公園にヤマユリの花を見に行きました。
鳩山から嵐山への道は・・・鎌倉街道上ツ道・・・途中の山道は笛吹峠・・・木曽義仲ゆかりの大蔵・・・畠山重忠ゆかりの菅谷
平治物語」「太平記」などで語られている中世の歴史街道です。

1333年、上野国新田庄で討幕の旗を挙げた新田義貞が鎌倉目指して進軍したのがこの鎌倉街道上ツ道。みごとに鎌倉幕府壊滅の立役者に。
1338年、その義貞も政争に敗れて足利尊氏に滅ぼされます。
1352年、復権を目指して新田義貞の遺児義興、義宗らが足利尊氏の軍勢と闘った場が 笛吹峠。そのときの新田軍の総大将が後醍醐天皇の皇子宗良親王。宗良親王は敗色濃厚な峠の上で笛を吹いたと伝えられ、のちの時代に笛吹峠と呼ばれるようになったとか。
古い話なので定かではありません。

笛吹峠を北に下ると嵐山町大蔵。新平家物語でお馴染みの朝日将軍木曽義仲の生誕地。
源義仲の父義賢(よしかた)はここ大蔵に居を構え北武蔵、西上州を抑えた源氏の侍大将。義賢の兄は源義朝、その長子が義平、次子が頼朝
1155年、義賢は義朝の長子悪源太義平の軍勢に襲われて(大蔵合戦)討死。義仲は斉藤別当実盛、畠山重盛らに助けられ信州木曽に逃れます。

笛吹峠を下り大蔵交差点のあたり、源義賢の廟所。
帯刀先生・・・天皇の親王・東宮の護衛官の長のこと。義賢の旧官職名。

農道から30mばかり入った畑の中に。鉄柵で守られた覆堂。

五輪塔・・・上から・・・空・風・火・水・地・・・なんですが2番目のが見えません・・・欠損?

様式から見て埼玉県で最古といわれていますが、いつのものか不明です。
義賢ゆかりの人が供養塔として建立したものと思われます。

どうでもいい薀蓄》源義賢は兄の義朝の差し向けた甥の悪源太葦平に殺されますが、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝の子たちは頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に抹殺されます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族の殺し合いが中世の歴史です。
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梅雨の合い間・・・ふたたび・・・嵐山町の菅谷館跡の・・・ヤマユリに逢いに

2016-07-14 | 野の花や木々

7月11日、友だち夫妻を誘って嵐山町の中世の城址、菅谷館跡公園にヤマユリの花を見に行きました。

菅谷館跡、本丸の土塁法面に咲くヤマユリ

菅谷館跡本丸より一談下の段丘に・・・リョウブの花が咲いていた。


ヤブカンゾウ・・・かな?

ノカンゾウ・・・かな?

※どうでもイイことですが・・・ヤブカンゾウは八重、ノカンゾウは一重、どちらもキジカクシ目キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ種、ややこしい。よく似ているニッコウキスゲ、エゾカンゾウ、ユウスゲなどは同じ仲間だがゼンテイカ種らしい。

6月、優雅な姿を見せてくれたオオムラサキの姿は、もうどこにも見えない。羽化したあと10日ばかりの命というが、どこに行ったのだろうか。


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「真田丸」の上田・・・「蚕都」の上田・・・往時を遺す常田館製絲場の国指定有形文化財

2016-07-13 | 信濃の国は

真田丸の上田」はフィーバーしてるようです。上田城址公園には観光バスがひしめいています。
そんな上田・・・かつては「絹の街」・・・「蚕都上田」でした。
今もその面影を偲ばす建造物があります。上田を訪れた際にはぜひ見てもらいたいと思います。

1878年長野県岡谷で創業した製糸業の笠原組が1900年上田市に進出して笠原組常田館製絲場(現笠原工業)を設立。明治末期から大正時代にかけて建造した建物群がいまも15棟残されています。うち7棟が国指定の重要文化財近代産業遺産です。

正門・・・左脇に守衛事務所、その向こうの白い建物は撰繭場、1908年建造、国指定重要有形文化財。

鉄筋コンクリート五階繭貯蔵倉庫、1912年建造、国指定重要文化財。
その奥に木造三階繭貯蔵倉庫、1903年建造、国指定重要文化財。

木造五階繭貯蔵倉庫、1905年建造、国指定重要文化財。四階に見えるが石垣の向こうに地下フロアがあるため五階。

常田館のシンボル・・・ボイラー室と煙突、高さ20m、1936年建造。

常田館(資料館)・・・旧事務所兼住宅、1908年建造、国指定重要文化財。建物の脇に同じく重文の文庫倉があります。

木造四階繭貯蔵倉庫、1910年建造、国指定重要文化財。

※重要文化財7棟。上田駅から徒歩5分、広い駐車場もあります。営業中の会社ですので正門を入った真っ直ぐに事務所があり、そこで見学を申し込めばOKで、決められた順回路のみですが内部を見ることができます。

蛇足》上田が蚕の都であったわけ・・・1889年丸子町に依田社が、つづいて上田に信陽館が、1900年に岡谷から笠原組が上田に常田館(現笠原工業)、1912年鐘紡(米軍接収を経て専売公社に、現在商業地に)、1916年上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)、文字通り蚕の都であったようです。現在はここ笠原工業、蚕種協同組合、旧制上田蚕糸専門学校講堂などの古い建物群が重要有形文化財として国に指定され、往時の蚕都の面影を残しています。


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