何故、十津川郷の志士も離反したのか?
<o:p></o:p>
9月14日、天辻本陣が陥落。30人対3000人では勝てるはずがない。吉村寅太郎は、陣に火をつけて小代村(天辻峠の少し南側)に撤退する。
同じ日、十津川郷では、朝廷から『天誅組を討ち果たせ!』との厳しい沙汰を受けて帰郷した十津川郷士たちが、これ以上、天誅組に協力を続けるか否かの会合をしていたのだ。
在郷の郷士も、朝廷からの御沙汰書を見せつけられ、十津川郷が知らぬ間に朝敵とされつつある事実に驚愕する。
でも、討伐には・・・賛成しかねる。今でこそ朝敵と言われるが今まで、共に戦い同じ倒幕義軍だった。同じ同志だったのだ・・・。討伐には反対した。
天誅組には略奪暴行という行為は一切なく、むしろ追討軍に多くみられたというから・・・その面でも同情的だったのだろう。
その解決策として、天誅組にこの郷の実状を訴え、納得して十津川から退去して貰おうと決めた。<o:p></o:p>
その通告は密書として14日深夜、忠光に届けられた。
忠光は、一部の重臣と相談、翌15日早朝、『去りたいものは去れ!脱出し道なければ敵と戦って潔く死のう。運がよければまた再び相見ることもあろう。』そういって水杯を交わすのです。ここに天誅組の解散を宣言するのです。
ところが、まだ吉村寅太郎の部隊は小代に居て、闘いながら上野地に向かっているところなのに・・・。またしても置き去りにして勝手に解散してしまったのだ。
水杯を交わした十津川郷士は、陣を離れていった。ただ、十津川郷士である幹部の野崎主計、深瀬繁理らは、とどまった。
▲この地で退去の交渉が行われたのだ。当時の福寿院は、風屋ダムの底に沈んでいる。湖畔に本陣跡を示す碑が湖面を見下ろしていた。
風屋村の福寿院で退去の交渉を持つことになり、上平主悦と伴林光平との話し合いがもたれ、結果、退去することになる。
伴林光平はこの結果報告を総裁の藤本宛にしたため、乾と野崎に託し、彼は上野地には戻らず、平岡鳩平とともに、深瀬繁理の案内で風屋を発ち、内原、花瀬から嫁越峠(吉野郡下北山村)を越え前鬼に向かい、十津川を脱出し、忠光とは別行動をとるのである。
この時、日本100名滝のひとつ「笹の滝」にも立ち寄っているらしい。
▲伴林光平は、この「笹の滝」にも立ち寄ったのだろうか。滝に向かう途中に歌碑があるそうだが、探したが見当たらなかった。
十津川郷士が去って、わずか隊士は50人たらず。
この時、吉村が詠んだ歌は
『雲なき月を見るにも思ふかな あすは屍の上を照るやと』
駕籠に揺られ、寂しい上に、既に、死を覚悟しているような・・・歌です。
更に辛い立場にあったのは「野崎主計」だ。
十津川郷士の総代で、全郷を率いて天誅組に参加、天誅組の立場逆転を知ってはいたが、吉村と共に転戦してきたのだ。そのうち、尊攘派が巻き返し再び倒幕が起こるのでは、と期待していた。
そのためにも谷瀬の砦(夢となった「黒木御所跡」)を作りたかったのだと思う。
その野崎主計は、全ては我が責任として辞世を残し、9月24日狸尾山(たのお)にて割腹した。享年39歳。辞世は、
<o:p></o:p>
『大君に仕へぞまつるその日より 我身ありと思はざりけり』
『うつ人もうたるる人も心せよ 同じ御国の御たみなりせば』
▲野崎主計の辞世の句は、今は旧川津ユースホステルの庭や天ノ川本陣の維新歴史公園に建っている。
本隊は、徹夜で風屋に移動したが、そのあとすぐに津藩が上野地へ、また和歌山藩は山手村(現在の十津川村山天)まで来ているのだ。
9月17日、本隊は、風屋を出発し小原村天ノ川(9/2に本陣を構えていた鶴屋治兵衛の家)まで南下。翌日は下葛川村へ。
更に上葛川村を経て笠捨(1352m)を越え、下北山村の浦向に辿り着いた。
この時は隊士60名、人足100名ほど。
浦向村の人々は親切であったという。浦向の正法寺などに分宿する。
同行してきた郷士や人足は、天誅組が十津川の郷から出たことで役目も終わり、十津川に引き返し、新たに浦向や周辺から120人ほどの人足が集められた。
21日には、池原村を経て上北山村・白川郷の林泉寺に着いた。
そこに伴林と平岡を案内し嫁越峠を越えて来た深瀬繁理が姿を見せる。前鬼を通り白川まで来ていたのだ。
伴林らはここで忠光宛の手紙を深瀬に託し、3日前の19日には白川村を出ていたのである。
忠光らは、23日朝まで、この地に留まるのです。
一方の伴林と平岡は、伯母峯を通り20日に入之波(しおのは)村に、21日には鷲家口(東吉野村小川)を通り、22日には桜井を通過。そして駒塚(法隆寺前。現在の斑鳩町東福寺1丁目辺り)の自宅に帰っていたのです。
また、天誅組と決別した水郡善之祐ら河内勢は、先に十津川郷の奥に南下し、16日、上湯川村(十津川温泉の西側。県道735号)の田中主馬蔵宅で休息。
主馬蔵が留守のため弟の勇三郎の案内で新宮方面への脱出を勧められ、村境まで案内される。
和歌山藩領の野中村(現・田辺市中辺路町野中。熊野本宮大社の西側)に入った途端、和歌山藩兵に襲われたため、再び田中宅へ戻ることに・・・。
この田中宅に泊まることになる。その間も刀の稽古しており“天”といえば“誅”という掛け声を掛けていたという。(これが「天誅組」の名前の由来かも・・・)
勇三郎らは山小屋でもてなし、寝入ったところを爆殺しようとするも、水郡は重症を負いながらも逃げ、山の中を彷徨ったところ、22日、小叉川村(現・田辺市竜神村小叉川。竜神温泉があるところ)で、和歌山藩に自首した。
その後、和歌山に送られ、善之祐の息子英太郎(13歳)を除いて京都六角獄舎に収容されるが元治元年7月20日、斬首されている。
水郡善之祐は、農家の米倉に幽閉されていたとき柱に辞世を書いている。
『皇国のためにぞつくすまごころは 知るひとぞ知る神や知るらん』
▲大阪府富田林市宮甲田町の「錦織神社」には「天誅組河内勢記念碑」がある。竜神で紀州藩に降伏した河内勢であるが、水郡善之祐の長男・英太郎を除く全員が京都に送られ刑死したのです。
<o:p></o:p>