何故、河内勢は離脱したのか?
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「下市の大火」により勝利し勢いづいた天誅組は、一気に五條から河内に脱出しょうと朝の軍議で決まった。
そのため、忠光は大日川に集合するよう前線の水郡・安積などの部隊に命令を出す。ところがその直後、藤堂勢の攻撃が始まったのだ。兵の疲れ、弾薬も底をついてきた。このままでは負ける・・・。
傍に居た藤本鉄石らからは、「河内への脱出をあきらめ、再び十津川に立て篭もって時期を待とう」という意見が出て、急遽、作戦変更だ。
翌朝、忠光は藤本・吉村ら本隊を連れて、天辻に引揚げたのだ。
総裁の吉村は、傷が治らず駕籠に担がれての移動。また、もともと片目であった松本奎堂も失明同様の状態で移動だ。
この移動についても前線にいた水郡や安積の将には知らされていなかった。
「またしても前線の我々を見捨てたのか・・・」水郡は、怒り心頭だ。
若狭のとりなしで、その場は収まり、とりあえず大日川陣に向かう。
▲忠光は、前線にいた水郡や安積の将には知らせずに、この場所にあった「天辻本陣」に引揚げたのだ。この地は地主であった鶴屋治兵衛の屋敷があったところで、その治兵衛翁の碑と野崎主計の歌碑などが建てられ、歴史公園となっている。その一角にはネットが張られていて近づくことが出来ない。もっと近寄ってみたいのだが、何故か隔離しているようで・・・可哀そうな感じがした。
藤堂勢は、10日の一斉攻撃を控え、深追いせず和田村に放火してすぐ退却。天誅組としては、彼らが何故退却したのか分からずに、安積勢は北曽木(西吉野村)の陣所を奪回。水郡の河内勢は追撃し丹原村(五條)まで進軍しそこに陣を張った。かつての天誅組櫻井寺本陣からは3kmほどの距離だ。
▲安積勢はこの北曽木(賀名生皇居跡)の陣所を奪回し、河内勢は丹原村(五條)まで進軍たのだが・・・。
水郡は、丹原村に居れば、忠光は河内に脱出する時は必ずここを通るはず、と考えていたのだろう。
ところが前日夕刻の軍議変更は知らされず、待てども本隊は来ない。自ら確認するため、大日川に行くと、既に天辻に向かったと聞かされる。またも置き去りにされたのだ。
ついに、安積五郎は懸命に引き止めたが、水郡善之祐は河内から行を共にしてきた同志12名を引きつれ、案内役として4人の十津川郷士とともに天誅組に決別する。
やはり相次ぐ、忠光公の前線部隊への思いやりに欠けた采配に嫌気が差したのだろう。
忠光は京から連れてきた者を庇い重用し、河内・大和から集めた者には前線に立たせ辛い目に合わせる。情報を与えない・・・。これでは、部下は付いてこない。
忠光は、離脱した水郡たちのことを、頭から脱走者と決め付け、更に献金を奪ったなどと横領の罪までかぶせる始末。
9月12日朝、和歌山勢が富貴村(和歌山県高野町)から進入し、鳩の首峠を占領。追討諸藩が12日からの一斉攻撃を仕掛けてきたのだ。
五條の藤堂勢も大日川に向かって攻めてきた。
▲この辺りが鳩ノ首峠なのだろうか? 右に行けば和歌山県高野町冨貴です。
でも、最強の河内勢はいない。もはや防ぎようがない。いよいよ天辻の本陣を放棄し、十津川に退くことになった。総勢60名は急ぎ十津川に逃げるように出発。
十津川に潜んで、時を待とう・・・。そして、十津川郷士の助けを得てゲリラ戦をしてでも持ちこたえよう・・・と。
郷士の心を掴むため、伴林光平に命じて十津川への挨拶状を書かせ、野村主計を通じて郷中に届けさせた。
▲伴林光平が書いた十津川郷中への挨拶状。(十津川村歴史民族資料館蔵)
9月12日、小代村(大塔村)で一泊。翌13日出発。山の稜線に沿って谷、川を越えて南に向かう。
藤本鉄石はこの時の様子を次のように詠んでいる。
『雲を踏み巌(いわお)さぐくむ武士(もののふ)の 鎧(よろい)の袖に紅葉かつ散る』
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上野地村に着いたのは、夜遅くのこと。東雲寺(西雲寺という説もあり・・・でも、町営駐車場にある本陣跡碑には東雲寺と書かれていたので・・やはり東雲寺なのだろう)を本陣とする。
忠光が考えていた谷瀬本陣は、「谷瀬のつり橋」を渡ったところにある黒木御所跡であるが、ここに立て篭もる計画だったようだ。忠光は、翌日に下見する予定であったが・・・夢となったのだ。
▲忠光は、この「谷瀬のつり橋」を渡った先の「黒木御所跡」に陣を築くことを夢見ていたのでは・・・と思われる。
この黒木御所跡とは、橋がなければ全く寄せ付けないところで、農地もあり自給自足が出来る土地であるとか・・・。この地に篭り、時を稼ぎたかったのだろうか?