スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて ⑮

2010-01-22 16:35:48 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<大日川の戦い>


忠光公は、8月30日の朝まで吉村総裁らが合流するのを待った。
ところが吉村は、『新宮に向かうには10数日かかり、途中で要所を固められると脱出は無理だ。それよりも敵中突破で五條から河内に出たほうがいい』と言う水郡善之祐の進言に従っていたのだ。

一方、忠光本隊も、新宮には向かうものの、ゆっくり進み、風屋村には2泊もしている。吉村たちを待ってのことなのか・・・?

その頃、京の孝明天皇は、なかなか討伐に動かない各藩に痺れを切らし、再度の「触れ書」を出している。
『政変は天皇の意思に基づくものであり、忠光は国家の乱賊である』・・・と。

<o:p></o:p>

各藩もこのお達しによって、天辻峠を三方から囲む布陣を張ることになり、新宮藩は、熊野川筋の船着場を押さえたとの情報も届く。



9
2日、忠光本隊は、風屋から更に南12kmの武蔵村(168号線沿いにある、現・十津川町役場、歴史民族資料館や道の駅から更に山の上で、かなり不便な場所だ。元・武蔵小学校跡で楠木正勝の墓がある「長盛山光明寺跡」)に移動。ここに3日間留まることになる。
忠光は、どうも、この武蔵の地を最後の砦とし、死に場所と決めていたのでは・・・とも言われている。


▲大日川~和田(賀名生)辺りの山路。向こうから槍を持った兵士たちが出てきそうなところです。


9
4日、本隊は、吉村からの具申により五條~河内を突破することとし、北に引き返すことになる。

天誅組を追う各藩も、戦い慣れないため、乱れがあったり恐れたり討伐にしり込みしているようだ。
その例が、各藩の偵察のため那須信吾らが恋野村(現・和歌山県橋本市)に陣を張っていた和歌山藩に夜襲を掛けたところ、簡単に勝って陣地を焼き払っているのだ。
このように和歌山藩には戦意がないと分かると、一気に北に向けて戻ることが出来る。



9
6日、忠光本隊は、天辻の本陣に戻ってきた。
軍議により本隊の多くを西吉野村・北曽木(賀名生村の南隣)まで出し、そこに砦を築き五條からの敵軍と戦うことを決める。
この行動は、下市方面に向かうと見せかけて五條を突破し、堺に脱出する作戦だった。

北曽木の陣が準備出来たため忠光一行は出発するが、大日川辺りで伊賀上野の藤堂新七郎軍600名と遭遇、前進できず3時間近くの戦闘となる。


▲大日川辺りの風景。この辺りで藤堂藩600人と戦闘が繰り広げられたのだろう。

<o:p> </o:p>

闘った後、天誅組は北曽木の東北にある銀峯山(白銀岳 611m)にある波宝神社に本陣を構える。これは当初の作戦通りだったのかもしれない。<o:p></o:p>

この波宝神社は神宮皇后が祈願したところであり、また吉野将軍宮が城砦を築き勝利したのもこの神社で、由緒ある神社だったのです。


▲西吉野村十日市辺りの県道20号・下市宗檜線の道端に「波宝神社」の案内看板があった。

<o:p></o:p>

▲「波宝神社」は、この山の頂辺りなのだろうか? 見晴らしの良い山頂からは五條や下市方面が眺められるらしい。

<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>


天誅組の足跡を訪ねて ⑭

2010-01-22 12:09:15 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて
<高取攻め・・・でも、失敗。>

旧暦825日(現在の107日)早朝、1200名の十津川郷士を得て、それまでの天辻峠の固守を一変、高取城の奪取に向けて全軍に出陣を命じたのです。

ところが、この兵たちにはあまりにも過酷です。
前日、十津川奥地から駆けつけた兵は、夜を徹して約50kmの山路を歩いて来たのに、更に戦えとは・・・酷です。
公家育ちと戦を知らぬ幹部に振り回されるのです。

今でこそ、アスファルト道路を車で飛ばせるが、当時は人が歩くのがやっとという山路。山で育った十津川郷士といえど、体力の消耗は凄かったでしょうね。

それでも、鉄砲や刀を持たない兵には、途中の竹やぶで竹槍を作らせます。五條に着いたのは夕方です。


▲十津川・天ノ川辻本陣から北に向かって五條陣へ・・・。険しい山路を進みます。十津川郷士は連日、歩き通しで、疲労困憊状態です。


既に郡山藩が御所まで来ていることを聞いて、五條陣で休むことなく忠光本隊は高取城へ。吉村寅太郎隊は、郡山勢を迎え撃つため御所に向かいます。
またも、休憩なしの進軍です。


▲その当時の難攻不落の高取城です。日本三大山城のひとつです。


▲現在の高取城は石垣を残すのみ。


忠光は、藤本・松本の二総裁の『十津川郷士の疲労度を考え進軍を自重すべき』との訴えを退け、那須信吾など若手の意見を取りいれ、高取城の夜襲を命じたのです。

翌朝、826日朝6時。
高取藩は、高取城から西5kmに位置する土佐街道(御所・五條と高取城下の土佐町と結ぶ街道)の高台で待ち伏せます。
この高台とは、現・高取町役場(藩の調練場)と国府神社の二つの台地で、大砲4門と鉄砲隊、槍隊で組み、また現高取小学校にも遊撃隊が、更に予備隊などが城下に控えます。


▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)には、石碑が建っています。


▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)は、高台になっており、左側から来る天誅組に対して大砲を打ち込んだのです。


▲正面に見える高台(高取小学校)にも遊撃隊がいたのでしょう。


天誅組の1200名に対し、高取藩は200名余りの陣営。
高台に陣を張った高取藩は、大砲や鉄砲・・・そして領内の農民に旗やホラ貝、陣太鼓を鳴らし、時の声を上げ・・・大軍がいることを思わせます。十津川郷士たちは逃げ惑うばかりです。戦闘2時間、天誅組は完全に敗退したのです。

負けた天誅組の死者は13名。生け捕り58名とか。対する高取藩の犠牲者は偵察に来て討たれた西島源左衛門と二人が負傷したのみ。
天誅組の完敗です。

不眠不休で戦い疲労困憊。武器も少なく、松の木を刳り貫いた大砲では、松ヤニが詰まって弾が飛び出しません。これでは勝負になりません。味方もガッカリで、戦意喪失です。
やはり、戦を知らぬ忠光公の失敗で、撤退しかなかったのです。


▲高取町リベルテホール玄関横に置いてある大砲(レプリカ)。高取藩が使っていたものかな? ブリキトースと説明されてあった。でも、こんな短筒で3貫目(11.25kg)の玉を500mも飛ばせるのか?まぁ、天誅組の松の木をくりぬいて作った大砲よりも威力はあるだろうが・・・。




▲ちゃんと説明されておりました。「ブリキトース砲」なんですね。

<吉村寅太郎・・・味方の鉄砲に撃たれ負傷!>

一方の吉村寅太郎、中垣健太郎、小川佐吉などの別働隊は、御所方面を探索していたが、五條への帰途、本隊が高取藩に惨敗したことを知り、20数名の決死隊を組み高取城への夜襲を目論むが、これも途中で見つかり戦闘に・・・この時、吉村寅太郎自身が、味方の鉄砲に撃たれて負傷し、何とか逃げ延びることに・・・・。
吉村の負傷は、わき腹とも太ももとも言われているが・・・ハッキリ分からない。


吉村は、翌、827日の正午頃、突撃前に休憩していた現・御所市重阪(へいさか)の庄屋、西尾清右衛門宅にたどり着き、「榎本住」という女医さんの手当てを受ける。

この時、世話になった西尾家に吉村寅太郎自筆の血染めの肌襦袢、天誅組志士連名の巻紙を同家に託したそうだ。
その肌襦袢には『尽忠 報国 土浪士 吉村重郷』と書かれている。

高取城攻略にことごとく失敗した天誅組は、再び天ノ川辻(天辻)本陣に戻ることに・・・。
負傷の吉村は重阪より五條に戻り、翌日、天辻本陣に戻るが、既に忠光と二人の総裁などの本隊は、天辻より16km南の長殿村・長泉寺に本陣を移動していたのだ。



828日、本陣が置かれた十津川・長殿村の長泉寺跡。今は、何も残っておらず、石碑がこの地を示している。

和歌山藩、彦根藩、郡山藩、高野山勢など幕軍の包囲網が進んできます。特に和歌山藩の600人は、五條村の1km西南の二見村まで来ています。

忠光公は、吉村に『諸藩の手が及ばぬうちに、新宮に至り、船で長州に向かおう。すぐ本隊に合流せよ』と伝えるものの、戻るのも待たずに逃げるように長殿へ・・・これには、吉村らも怒ります。
吉村らは、あくまで天辻峠で戦うことを決意し、天辻峠にとどまります。

そして、吉村は、橋本若狭、そして水郡善之祐ら河内勢を中心に隊士40名他、150名ほどで広橋峠、栃原岳、樺の木峠に土で盛り上げた小さな砦(土塁)を築き、防御を固めるのです。


▲樺の木峠に向かう途中の栃原より見渡すと、眼下に下市、大淀が見えます。


▲樺の木峠の説明板がありました。すぐ近くで道路工事をしているため、土埃で汚れております。工事が終われば綺麗に拭いて欲しいものです。


▲樺の木峠です。下市方面と十津川方面を結ぶ十日市街道(下市宗檜街道)の難所として行き交う人々を迎える茶屋が数軒あったのですが・・・910日の天誅組の戦で、茶屋は焼失し、塹壕が残っていることを伝えています。
今は近くに民家が1軒だけ建っています。


8
30日、本隊の忠光らは、長殿村から更に南の風屋村の福寿院(今は風屋ダムの湖底)へ移陣します。
この時、津藩兵(藤堂勢)は五條に、郡山藩兵は下市に迫っているのです。



▲風屋本陣跡の碑です。湖底になってしまった福寿院の本陣跡石碑は、今は老人センター前に建っていました。