<「8月18日の政変」で・・・朝敵に・・・・>
五條代官所を急襲し、鈴木代官を討ち取った天誅組は、近くの桜井寺に陣を張った。
ここまでは計画通りに進んでいたが、京都の朝廷では異変が起こっていたのです。
急激な倒幕運動に批判的だった中川宮(のちの久邇宮朝彦親王)が会津、薩摩藩ら公武合体派の謀略により、尊攘派の追い落としを行ったのです。
長州藩の勢力を一掃し、大和行幸の宣布を白紙に戻したのです。これがいわゆる『8月18日の政変』です。
大和行幸の宣布は、もともと激派の公卿や長州藩の力に屈して出されたもので、公武融和を望まれる孝明天皇の本意ではなかったと・・・。
中川宮の1ケ月にわたる慎重な準備で、電光石火のクーデターを行ったのです。
①大和行幸の儀の取りやめ
②三条実美以下の議奏、国事掛の公卿19名の禁足
③長州藩の堺町御門警備の任を解き、会津・薩摩藩の兵に変えること
この3つを奏上、勅許を得るのです。
鷹司関白や三条などの公卿は夜が明けてからそれを知り、あわてたが勅諚が出され、時すでに遅し。
御所の九門は閉ざされ、駆けつけた尊攘派公卿たち、長州藩などは門の中に入れず・・・。
尊攘派公卿・長州藩士らは、いったん長州に下って再挙を図ることにし、都落ちとなったのです。
七卿は官位を剥奪され、長州藩も藩邸から退去するように命じられた。こうして、尊攘派は京都から一掃されたのです。
孝明天皇から8月26日に発せられたものによると『始めから大和行幸などすることなど考えはなく、一部過激派の策動によるものである』とされ、当初の勅は結局、偽勅となったのです。