スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて ⑬

2010-01-21 13:47:28 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<十津川郷士の徴兵・・・二人の死>

十津川郷といえば、かなり広い。山を越え谷川を渡って・・道とは言えないほどの山路。1日余りで1200人が集まった。
その連絡・移動手段は、どうだったのか・・・詳しく知りたいところです。

郷の人々は、イザという時、いつ何時でも出立出来る準備と心構えが備わっていたのだろうか。
十津川郷士は、菱形に十字の十津川郷の紋をつけた陣笠、陣羽織の装束、手には刀・鉄砲・槍あるいは何も持たず集まったのだ。


▲伴林光平が書いた大和義挙の檄文。十津川郷士を招集するための文書で、かなり強制的な内容なのだ。(十津川歴史民族資料館蔵)


▲梅田雲浜の書簡。深瀬繁理のことも書いてある。(十津川歴史民族資料館蔵)


▲菱に十字の十津川郷士が被っていた陣笠。そして
幟旗。菊の御紋が光って見える。天誅組に加わっていた時もこのいでたちだったのだろうか。(十津川歴史民族資料館)


▲十津川郷士の鉄砲・刀・弓・槍・薙刀と通行手形。(十津川歴史民族資料館蔵)


▲風屋ダムのほとり、小学校跡地に建つ「野崎主計」の碑。
時世の句・・・『討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば』



▲その隣には、十津川郷の梅田雲浜翁の碑があった。維新の志士たちにかなりの影響を及ぼしたのです。

梅田雲浜翁:アメリカのペリーが来航すると、条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕府を激しく批判した。しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。 『ウィキペディア(Wikipedia)より』
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22日には、丹生川上神社の神官である橋本若狭と弟子が天誅組に加わるため天辻本陣に来ている。橋本は、神官であって武芸にたけ、この辺りでは隠然たる勢力をもっていたのです。

高取藩への交渉に出ていた那須信吾は、高取藩からある程度献上品を持ち帰っていたのだが、約束していた米百石が期限を過ぎても届かないため催促するものの・・・既に高取藩では京都守護職より達しがきており、天誅組に向けて戦闘準備に掛かっていたのである。

高野山にも協力を要請していたのだが、ここも紀州藩の手が回っており380名ほどの幕軍を迎え、幕軍を天辻への道案内役も務めるのである。

また、この本陣には五條などからも人足が集められ、弾薬、兵糧の調達が進められている。<o:p></o:p>

更に本陣とは別に、紀州方面の富貴辻と五條方面の鳩の首峠には、土塁や大砲を築き防御の砦固めもしている。


この本陣で作られたものの一つに、松の木をくり抜き、その周りを細く裂いた竹で締め付けた「大砲」がある。
後日、高取城攻めの時、使ったようだが・・・どうも筒の中に松ヤニがこびりついて発射すると筒が割れてダメだったようだが・・・。

集められた十津川郷士を前に、行動の趣旨が述べられたのだが、郷土の一人「玉堀為之進」と河内出身の浪士「上田主殿(とのも)」が、勅命の真偽を問いただした。
『一度、京に使者を出し、事実を確認してから郷土全体の行動をきめるべきだ』と主張したが、結束のため他への影響を恐れて二人は斬られてしまう。
これで、反逆するものはいなくなったのだ。


▲国王神社の境内建つ、郷土の一人「玉堀為之進」の歌碑。勅命の真偽を問いただしたため、「軍の統率を乱す!」といわれ上田主殿とともに打ち首になったのです。


▲玉堀為之進の碑。地元では庄屋であった。


▲国王神社。上野地から下流の杉林の崖の途中にある。この境内に玉堀為之進の碑が静かに建っている。


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その一方、朝廷・幕府は、これら天誅組の行動は勅命によるものでないことを公布し、各藩に追討命令を出したのだ。

天誅組も十津川郷士1200名を得て、天辻峠から出て、山城として難攻不落とされる「高取城」奪取に向かうのです。


天誅組の足跡を訪ねて ⑫

2010-01-21 10:28:42 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<天ノ川峠(天辻峠)の本陣>


▲国道168号線 西吉野トンネルの手前から振り返れば・・・


▲天辻の手前です。右に行けば和歌山県高野町冨貴です。


天誅組の50名は、国道168号線を南に進み天辻峠へ向かいます。

もちろん、今日のような広い道でなく、馬が一頭通れるだけの狭くて険しい道だったのだろう。
当時の天辻峠は標高800m(現・天辻トンネルは標高647m。大正時代に標高750m付近に短いトンネル完成。昭和34年にも標高700mに旧トンネル完成。更にその下に五新鉄道<五條-新宮>のトンネルがあるが今は廃線。4本もトンネルがある峠なのです。トンネル道が長くなり崖崩れも少なくなりました。)に位置し、熊野方面と高野山に向かう道がここで交差し、宿や問屋が100軒ほどあってかなり賑やかだったようだ。


▲大塔橋を渡ると坂本村です。左に行けば県道53号線で天川村へ。右側の168号線で十津川に向かいます。この手前の高台に天辻峠本陣跡があります。


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20日の夜8時頃、坂本村に到着。
ここに本陣を構える予定であったが峠から350mも低いところでスリ鉢の底に位置するため、見晴らしが悪い。現在の坂本のほとんどは既に猿谷ダムの底に沈んでいるのです。





▲吉野郡大塔村・国道168号線の天辻峠に立てられた「維新胎動の地」の碑。


▲現在の国道168号線に立てられた「天の川本陣跡」を示す看板。これより急勾配の坂道を登ると10数軒の民家があります。


21日、峠の上の鶴屋治兵衛の屋敷を本陣とした。
この場所は周りが見渡せ、背面は大峰・高野の山が屏風のようになっている。敵陣が攻めてきても見下ろせる好位置なのです。


▲攻めてくる敵を見下ろせる絶好の場所に本陣を構えたのです。本陣跡に登る途中からの光景です。


▲維新歴史公園奥側から見たところ。右側のネットで囲まれた場所に碑が建てられている。
明治から昭和にかけて天辻小学校があったところとか。敷地の一角には「天辻延命地蔵尊」があり、その隣に石碑が立ち並んでいる。


▲「天誅組本陣遺跡」の石碑。



▲天誅組に屋敷を提供し全面的に協力した「鶴屋治兵衛翁」の碑。


▲「野崎主計」の句碑。
『 討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国のみたみなりせば  野崎主計 』

先に、吉村寅太郎と保母健は、乾十郎の案内で十津川郷に出向いていた。郷士兵を集めるためである。
この十津川郷の勤皇の歴史は、神武天皇東征軍の先鋒を務めたことに始まるとされ、たえず天皇の行幸の御用を務めてきており、壬申の乱の功績で租税を免除された謂れがある。

そんな郷士は、既に100名の主だったものが外夷対応として京に出ており、更に天誅組が大和入りする数日前にも100名が上京していたのである。
そんな中で、兵を集めるとは・・・。
そのような状況下であったが、かねてから十津川郷とは深いつながりを持っていた乾十郎は、川津村・庄屋 野崎主計(かずえ)を吉村に引き合わせた。

吉村の話と人柄に、野崎主計は田良原村の深瀬繁理などに連絡し郷をあげて協力することになり、15歳から50歳までの男子のすべてを24日に天ノ川辻本陣参集の連絡を取ったのだ。翌25日朝までには全郷土から約1200人が集まったという。