波羅蜜はなぜ6つなのか:唯識のことば11

2017年02月04日 | 仏教・宗教

 唯識は、悩みだらけのふつうの人間・凡夫のままでいることにとことんうんざりして、なんとかして究極の爽やかさ・無住処涅槃を得たいと求めはじめた人・菩薩のための道案内の理論です。

 ですから、理論そのものが最終目的ではありません。

 理論がわかったら――あるいはまだよくわからなくても――「では、どうすればいいのか」を具体的に示して、それを実行してもらうことが次の目標です。

 「では、どうすればいいのか」という問いへの答えは明快で、「六項目を実践して下さい」と。

 そしてアサンガは、例によって用意周到に、「どうして六つだけなのか」というありそうな質問にも、予め答えます。


 なぜ波羅蜜はただ六つだけであるのか。それは、六種の迷い・障害の対治を確立することが目的だからである。…

 修行しようという心を起こさない原因を対治するために、布施と持戒の二つの波羅蜜を設定する。修行しようという心を起こさない原因とは、財産や家に執着することである。

 もしすでに修行しようという心が起こっているならば、退行する心の原因を対治するために、忍辱と精進の二つの波羅蜜を設定する。

 退行する心の原因とは、すなわち生死輪廻する衆生が逆らい迫害するという苦しみと、長い間、善なる法を支持する修行を加えることによる疲労である。

 もしすでに修行しようという心とまた退行することのない心が起こっているならば、それが壊れ失われる心の原因を対治するために、禅定と智慧の二つの波羅蜜を設定する。

                    (『摂大乗論現代語訳』一二六~七頁)


 まず、ふつうの人が過剰に執着しがちな豊かな財産や幸せな家庭とその獲得・維持がすべてだと思い込んだ硬直した生き方に対しては、手放すこと・布施と別の生き方・持戒を示します。

 爽やかに生きたいのなら、〔願っても〕執着しない心と別の生き方が必要なのです。

 それを納得して、せっかく修行を始めても、次にぶつかるのは「退行する心」の問題です。

 私は修行という立派なことをしているのに、人が理解してくれない、ほめてくれない、どころか、バカにする、足を引っぱる、迫害する……と、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」という気になりがちです。

 しかも、修行は楽でもなければ、短くもない。やってもやっても終わらない。「ああ、疲れた。もういやだ。もうダメだ」という気分になりがちです。

 でも、そこがポイントだ、とアサンガはいいます。

 その時こそ、忍辱と精進が修行できる。人に評価されず、誤解され、迫害される時こそ、忍辱のチャンスだ。疲れ切って、燃え尽き、くじけそうな時こそ、精進のチャンスだというのです。

 ものは見方でいろいろに見える=唯識です。見方を変えれば、危機(ピンチ)が好機(チャンス)に見えてきます。

 リストラされた時、倒産しそうな時、家庭がもめている時、なにもかもうまくいかないように思える時は、見方を変えれば自己成長のチャンスですが、なかなかそうは思えません。

 そういう時こそ、禅定と智慧を実践しましょう。実践した分だけは確実に心が楽になり、爽やかになります。

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