覚りに基づく世界システムの可能性:唯識のことば26

2017年02月25日 | 仏教・宗教

 滅することが難しく解くことも難しいものを、共通の束縛(共結・ぐけつ)と名づける。

 瞑想修行する人は、心は〔ふつうの人が分別するのとは〕異なっており、相が大きいことによって外界を生ずる。

 清浄な人は、まだ〔外界が〕滅していなくても、そのなかに清浄さを見る。

 仏の浄土を完成するのは、清浄な仏の見方によるのである。

                      (摂大乗論第一章より)


 さまざまな面で進歩しているはずの二十一世紀になっても、人類は「滅することが難しく解くことも難しい」重大な課題を残したままです。

 主なものだけでも、戦争、テロ、宗教・民族対立、格差、環境破壊、ニヒリズム等々。

 それは、心ある個々人の努力にもかかわらず、世界共通の束縛・課題となっています。

 「私のせいではない」とか「私は知らない」ということで、それから逃れられるわけではありません。

 唯識では、自分と分離した世界・外界があるという錯覚・無明は、個々人だけではなく、人間すべてに共通の束縛であると捉え、「共結(ぐけつ)」と呼び、その錯覚から、怒りも恨みも敵意・殺意も独善も空虚感も生まれてくるといっています。

 つまり、現代の問題は、人類が始めから抱えている問題が極限状態になったもので、昨日今日、近代だけの問題ではないのです。

 しかし、瞑想修行する人の心が捉える外界は、外界とはいっても、「相が大きい」、どのくらいかというと「十方世界に通ずるが故に、相大という」くらい、つまり宇宙大に大きく、しかも「識を離れて、別の外境無し」で、自分の心と分離して関係のない外界ではないのです(真諦釈)。

 瞑想修行している人は、まだ完全に外界とか他者という見方を超えきってはいないにしても、ものの見方は清浄になっており、マナ識的な執着から解放されつつあり、マナ識‐自分のつごうを離れて世界を見ると、世界・宇宙は、根源的にはありのままでいい(本来自性清浄・ほんらいじしょうしょうじょう)のです。

 自分や自分のいのちを絶対化した価値観からすると、どんなにふつごう・不条理であるように見えても。

 しかも、そういう根源的にはありのままでいい=清浄と見る見方からこそ、現象としては煩悩で汚れたこの世界=穢土を変容させて、ほんとうに清浄な仏の国土を実現できるとアサンガ菩薩はいいます。

 一定の価値観・イデオロギーからする否定による革命ではなく、根源的肯定からする成長-完成としての変容です。

 釈では「若し智慧と慈悲あらば、分別を起し利他を為し、浄仏土を成就す」といわれています。

 意訳すると、「もし智慧だけではなく慈悲もあるなら、〔あえて〕統合的な理性としての分別を起動して他者の幸福を図り、世界をすばらしい仏の国土へと完成させていく」ということでしょうか。

 ただ、そのためには「清浄な仏の見方」が必須で、だとすると、私たちにはやはり無理ということになりそうです。

 ところが、釈には「初地は菩薩の見位なり。初地の中の清浄は、是れ、見道の清浄なり。見道の清浄なる、是れを『仏見の清浄』と名く。此の清浄に由りて、能く仏土の清浄を得。何に況んや修位及び究竟位をや」とあります。

 菩薩が初めてようやく到達できた程度の覚りでも、浄らかな仏の国は実現できる、ましてそれ以上の境地であればいうまでもない、と。

 そうだとすれば、人類的英知に基づく持続可能な世界システムは、もちろん安易に行ける距離にはないとしても、私たちにとっても絶対に到達不可能と思うほど遠くはないといえそうです。


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