菩薩には三十二の特徴があるといわれているうちの、九番目から十四番目までです。
これも前回同様、単なる凡夫が絶対に実現するべき理想として追求する項目と考えたら、大変なことです。
⑨「ふさわしく語り、微笑みながら言う」とは、場所にふさわしく語るというカルマである。……
⑩「さまざまな衆生に対して慈悲が異なることがない」とは、すなわち、苦しんでいる者、楽しんでいる者、そのどちらでもない者に平等なカルマである。
⑪「する事柄についてくじける心がない」とは、劣等感のないカルマである。
⑫「倦み疲れてしまうことのない心」とは、すなわち撤退することのないカルマである。
⑬「道理を聞いて飽きることがない」とは、救いの手段を集めるというカルマである。
⑭「自らなした罪はその過ちを表明し、他者のなした罪は〔その人自身に対する〕不信の念なしに指摘する」とは、すなわち〔過ちは過ちとして認めて〕否定することによって対治されるというカルマである。
こうした項目をあるべき理想とすると、誠実であればあるほど、追求すればするほど、自己分裂が起こり、苦しくなって、「罪悪深重の凡夫」といった自覚に到るでしょう。
それは霊性のプロセスの一タイプとして、ありうることですが、私は少し違ったふうに考えています。
菩薩とはいってもまだ凡夫性が大幅に残っている菩薩を、「凡夫の菩薩」――これは実に的確な表現ですね――といいます
そういう凡夫の菩薩にとってこうした項目は、〈理想〉というより、スポーツの〈努力目標・到達目標〉のようなものと捉えたほうがいいのではないでしょうか。
もちろんダメなところはダメなところですが、それは「救われ難い」と受け取られるのではなく、「否定することによって対治されるというカルマ」と捉えるべきなのです。
ダメな今の自分は自己修練によって克服され、ダメではない自分に成長できるのです。
それには、「する事柄についてくじける心がない」、「劣等感のないカルマ」と「倦み疲れてしまうことのない心」、「すなわち撤退することのないカルマ」が必要ですが。
なぜそんなことができるかといえば、それはアーラヤ識があるからです。
『摂大乗論』のいうとおり、「この領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の種類(六道、迷いの世界)があり、また涅槃(覚りの世界)を得るということもある」のです。
ぜひ確認しておきたいことは、唯識では、アーラヤ識があるということは、迷いの根拠であると同時に覚りの可能性の根拠でもあるということです。
アーラヤ識が与えられているからこそ、いつか必ず覚れるという「道理を聞いて飽きることがない」、「救いの手段を集めるというカルマ」を持続することで、私たちは劣等感を克服し、自信を持って、撤退することなく、修行しつづけることができるのです。
凡夫のマナ識的な努力には「燃え尽き症候群」がつきものです。
そうならないよう、アーラヤ識のポジティヴな可能性の面に心の眼を向けて、人生のだるさや疲労感に勝ちましょう。
そして、微笑とやわらかな言葉と平等な慈しみの心を少しでも取り戻せるといいですね。