菩薩の32の特徴3:唯識ことば15

2017年02月10日 | 仏教・宗教

 菩薩の特徴の十五番目から二十五番目までです。


 ⑮「一切の日常行動において常に菩提心をもっている」とは、すなわち断絶なく思惟するというカルマである。

 ⑯「報いを求めることなく布施を行なうこと」。

 ⑰「一切の怖れやどこに輪廻するかにこだわらず、戒めを守ること」。

 ⑱「一切の衆生に対して忍耐づよくあってとどこおることがないこと」。

 ⑲「一切の善なる事柄を吸収するために精進を行なうこと」。

 ⑳「三昧を修行して無色定を超越すること」。

 ㉑「方便をそなえた智慧と四つの衆生を抱く方法(四摂法)に応じた方便〔を得ること〕」とは、すなわち勝れた段階へと進むカルマである。

 ㉒「戒律を守る者と戒律を破る者のどちらに対しても、善き友として無二である」とは、すなわち方便を完成するカルマである。

 ㉓「善知識に師事し、尊敬の心をもって教えを聞く」とは、すなわち正しい法を聴くことである。

 ㉔「尊敬の心をもち楽しんで静かな所にとどまる」とは、すなわち静かな所にとどまることである。

 ㉕「世間の珍しいことを喜ぶ心を生じない」とは、すなわち誤った感覚の刺激を遠ざけることである。


 ほんものの菩薩の行動・カルマは、ある時たまたま感動してその気になったのでする、あきたからやめるといったものではありません。

 毎日の生活すべてが覚りを求める修行です。

 禅では「作務(さむ)」といわれますが、お掃除をすること、料理を作ること、お皿を洗うこと、その他、日常のふつうはささいな、つまらないことと思われているようなことも、すべてなすべき務めをなすこととして、心を込めてすることです。

 「断絶なく思惟する」というのは、一日中むずかしいことを考えているということではないと思います。

 そして菩薩の行動指針の中核は、いうまでもなく六波羅蜜であり、その目標は、衆生すなわち自他をともに抱きとり、救いとる方便・巧みな方法を備えた智慧を得ることです。

 「四摂法(ししょうぼう)」とは、布施、愛語・やさしいことば、利行・ためになることをすること、同事・協力一致することの四つで、六波羅蜜と重なっていますが、「愛語」が特徴です。

 人間はことばの動物であり、ことばには人を殺しもし生かしもする驚くべき力があるのです。毎日、ひとに対してどんなことばを使うか、心したいと思います。

 そして菩薩は、方便を備えて、善人だけでなく悪人にも無二の親友となるといわれています。

 これは、とても困難な行で、マナ識を抱えたままでは不可能です。平等性智によってのみ実行できることです。

 そこで、平等性智を含めた智慧を得るために、よい師について、尊敬の思いを持ちながら真理のことばを学び、気晴らしの刺激や楽しみをあえて離れ、静かな場所で瞑想しつづけるのが、菩薩のカルマ・生き方です。

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菩薩の32の特徴2:唯識のことば14

2017年02月08日 | 仏教・宗教

 菩薩には三十二の特徴があるといわれているうちの、九番目から十四番目までです。

 これも前回同様、単なる凡夫が絶対に実現するべき理想として追求する項目と考えたら、大変なことです。


 ⑨「ふさわしく語り、微笑みながら言う」とは、場所にふさわしく語るというカルマである。……

 ⑩「さまざまな衆生に対して慈悲が異なることがない」とは、すなわち、苦しんでいる者、楽しんでいる者、そのどちらでもない者に平等なカルマである。

 ⑪「する事柄についてくじける心がない」とは、劣等感のないカルマである。

 ⑫「倦み疲れてしまうことのない心」とは、すなわち撤退することのないカルマである。

 ⑬「道理を聞いて飽きることがない」とは、救いの手段を集めるというカルマである。

 ⑭「自らなした罪はその過ちを表明し、他者のなした罪は〔その人自身に対する〕不信の念なしに指摘する」とは、すなわち〔過ちは過ちとして認めて〕否定することによって対治されるというカルマである。


 こうした項目をあるべき理想とすると、誠実であればあるほど、追求すればするほど、自己分裂が起こり、苦しくなって、「罪悪深重の凡夫」といった自覚に到るでしょう。

 それは霊性のプロセスの一タイプとして、ありうることですが、私は少し違ったふうに考えています。

 菩薩とはいってもまだ凡夫性が大幅に残っている菩薩を、「凡夫の菩薩」――これは実に的確な表現ですね――といいます

 そういう凡夫の菩薩にとってこうした項目は、〈理想〉というより、スポーツの〈努力目標・到達目標〉のようなものと捉えたほうがいいのではないでしょうか。

 もちろんダメなところはダメなところですが、それは「救われ難い」と受け取られるのではなく、「否定することによって対治されるというカルマ」と捉えるべきなのです。

 ダメな今の自分は自己修練によって克服され、ダメではない自分に成長できるのです。

 それには、「する事柄についてくじける心がない」、「劣等感のないカルマ」と「倦み疲れてしまうことのない心」、「すなわち撤退することのないカルマ」が必要ですが。

 なぜそんなことができるかといえば、それはアーラヤ識があるからです。

 『摂大乗論』のいうとおり、「この領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の種類(六道、迷いの世界)があり、また涅槃(覚りの世界)を得るということもある」のです。

 ぜひ確認しておきたいことは、唯識では、アーラヤ識があるということは、迷いの根拠であると同時に覚りの可能性の根拠でもあるということです。

 アーラヤ識が与えられているからこそ、いつか必ず覚れるという「道理を聞いて飽きることがない」、「救いの手段を集めるというカルマ」を持続することで、私たちは劣等感を克服し、自信を持って、撤退することなく、修行しつづけることができるのです。

 凡夫のマナ識的な努力には「燃え尽き症候群」がつきものです。

 そうならないよう、アーラヤ識のポジティヴな可能性の面に心の眼を向けて、人生のだるさや疲労感に勝ちましょう。

 そして、微笑とやわらかな言葉と平等な慈しみの心を少しでも取り戻せるといいですね。

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菩薩の32の特徴1:唯識のことば13

2017年02月07日 | 仏教・宗教

 唯識は、大乗の菩薩のための学です。

 「菩薩だけのために説き、凡夫に対しては説かない」とはっきり言われています。

 では、凡夫=平均的な人間と菩薩=覚りを求めている人間は、どこがちがうのでしょう。

 『摂大乗論』では、菩薩には三十二の特徴があるといわれています。

 一度では学びきれませんから、今回は最初の八項目をあげました。


「もし菩薩が三十二の特徴を持っているならば、菩薩と呼ぶことができる」。

  ①「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志を持っている」とは、一切智者の智慧に導き入れる意志、すなわち伝えていくことを行ずるというカルマである。

  ②「私は今、どのような境地でこのような智慧に対応するべきだろうか」。すなわち転倒のないカルマによってである。

  ③「高慢な心を捨てる」とは、すなわち他者に頼まれることを待たず、自ら実行するカルマである。

  ④「堅固な善意」とは、すなわち壊しえないカルマである。」

  ⑤「かりそめに憐れむのではない意志」とは、すなわち求めるところのないカルマである。

  ⑥「恩がえしを欲しがらない」。」

  ⑦「親しい者と親しくない者とに平等な意志」とは、すなわち恩のあるのと恩のないのとの衆生に対して愛着と憎悪の心を起こさないことである。

  ⑧「永遠に善き友となるという意志が無余涅槃に到る」とは、すなわち誠実にかたわらにあって行為し、次の生にまで到ることである。

                  (摂大乗論現代語訳一〇三~四頁)


 読んで味わうだけでも十分なことばですが、誤解しがちなポイントについて、少しだけ解説をしておきます。

 これらの特徴は、常識的に見ると、「たしかに立派だが、並の人間にはとてもできそうもない高すぎる理想」と思えるという点です。

 しかしまさにそこがポイントですが、菩薩とは、「自分だけで存在している自分などというものはない。自分は他者や他の物や宇宙全体とつながっていて、そのお陰で生きている。ただつながっているというより、むしろ一つなのだ」と、聞いて、考えて、納得したからこそ、修行を始めた人です。

 ですから、菩薩は、一切の衆生とは自分も含めたすべての生きとし生けるものだと、たとえ理屈だけでも知っているはずです(といっても、初心のうちはしょっちゅう忘れますが)。

 だとすると、「一切の衆生を利益し、安楽ならせたい」というのは、自分の幸福は脇において、自分と分離した他人のためにひたすら自己犠牲をするということではなく、もともと一体である自分と他者を一緒に幸福にしたいということです。

 本当の私は他者とつながっており、究極的には一つですから、私だけの幸福というのは、深い意味ではありえないし、無理な努力をして私を犠牲にして他者だけを幸福にしなければならないという話ではないのです。

 つまり「自利利他」であり、それは本当の自己のやむにやまれない、自発的な願いです。

 ここがわかれば、他も高邁だが無理な理想ではなく、深くて自然な願いだとわかると思うのですが、いかがでしょう。

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禅定と安らぎ:唯識のことば12

2017年02月06日 | 仏教・宗教

 唯識学は禅定の体験をもとに理論化されたものです。

 ですから、実際に自分でも体験しないと実感できませんし、実感できていないと十分日常生活の役に立つというわけにはいきません。

 しかし、せっかく人間は煩悩だらけの状態から爽やかな状態へと変化できるという唯識のメッセージに出会ったのですから、それを体験・実感していただけるといいと思うのです。

 そこで、実際の方法は『唯識で自分を変える』(すずき出版)などで自習か、講座に参加していただいて、自分のものにしていただきたいのですが、ここでは、『摂大乗論』の句を参考に、禅定をするとどういう心の状態になるのか、少しイメージできるように描いてみたいと思います。


 菩薩が禅定に入り
 心はただ影像のみであると洞察し
 外界という相を離れ去り
 まちがいなくただ自らの想念を見るのみであると洞察する
 菩薩は内面に止まり
 見られるものが存在しないことに悟入し
 次に見ることも空であることを洞察して
 後にその双方が妨げを超えたもの(無碍)であることを悟る

               (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 禅定を始めてある程度の時間が経ち、心が静かになり外の刺激が意識から遮断されると、内面に浮かぶ想念・イメージに注意が集中されていきます。

 それは、よく洞察すると、たしかに「外界に関する」想念なのですが、しかし「想念」であり、つまり心の内面で起こっているだけです。

 つまり「外界そのもの」ではありません。

 まちがいなくただ自分が自分の心のなかに描いた想念を見ているだけなのです。

 不思議というか面白いというか、心のなかの想念をただの想念としてじっと観察していると、しだいに静まり、消えていきます(禅定に習熟していないと、すぐに、いつでも必ずというわけにはいきませんが)。

 内面に集中し続けていると、見ていた対象は想念であって、実体ではないことに気づきます。

 つまり、本当には存在しないのです。

 対象を見ているつもりが実は想念を見ているだけで、それは実在ではないと深く気づくと、それを見る私という想念も消えていきます。

 見られる対象・客体と見る私・主体の分離=妨げがなくなって、しかしはっきりと目覚めた心だけが残ります。

 世界と私が一体である、さらには世界も私もない、という目覚めだけがありありと現出するのです。

 こうした「無分別智」を体験すると、実に爽やかで安らかな気持ちになれます。

 例えば苦しめるものと苦しめられるものの分離・対立もなければ、悩ますものと悩ませるもの分離・葛藤もないのですから、当然といえば当然でしょう。

 もちろん徹底した無分別智は高い境地に達した菩薩しか得られませんが、スタートしたばかりの菩薩でも禅定をある程度修得すると、すればしただけの安らぎは必ず得られるようになります。

 そういう意味で、ストレスだらけの人生を乗り切るには、禅定はお勧めの方法です。

 関係者のみなさん、今年も実践していただけるよう、ご精進をお祈りしています。



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波羅蜜はなぜ6つなのか:唯識のことば11

2017年02月04日 | 仏教・宗教

 唯識は、悩みだらけのふつうの人間・凡夫のままでいることにとことんうんざりして、なんとかして究極の爽やかさ・無住処涅槃を得たいと求めはじめた人・菩薩のための道案内の理論です。

 ですから、理論そのものが最終目的ではありません。

 理論がわかったら――あるいはまだよくわからなくても――「では、どうすればいいのか」を具体的に示して、それを実行してもらうことが次の目標です。

 「では、どうすればいいのか」という問いへの答えは明快で、「六項目を実践して下さい」と。

 そしてアサンガは、例によって用意周到に、「どうして六つだけなのか」というありそうな質問にも、予め答えます。


 なぜ波羅蜜はただ六つだけであるのか。それは、六種の迷い・障害の対治を確立することが目的だからである。…

 修行しようという心を起こさない原因を対治するために、布施と持戒の二つの波羅蜜を設定する。修行しようという心を起こさない原因とは、財産や家に執着することである。

 もしすでに修行しようという心が起こっているならば、退行する心の原因を対治するために、忍辱と精進の二つの波羅蜜を設定する。

 退行する心の原因とは、すなわち生死輪廻する衆生が逆らい迫害するという苦しみと、長い間、善なる法を支持する修行を加えることによる疲労である。

 もしすでに修行しようという心とまた退行することのない心が起こっているならば、それが壊れ失われる心の原因を対治するために、禅定と智慧の二つの波羅蜜を設定する。

                    (『摂大乗論現代語訳』一二六~七頁)


 まず、ふつうの人が過剰に執着しがちな豊かな財産や幸せな家庭とその獲得・維持がすべてだと思い込んだ硬直した生き方に対しては、手放すこと・布施と別の生き方・持戒を示します。

 爽やかに生きたいのなら、〔願っても〕執着しない心と別の生き方が必要なのです。

 それを納得して、せっかく修行を始めても、次にぶつかるのは「退行する心」の問題です。

 私は修行という立派なことをしているのに、人が理解してくれない、ほめてくれない、どころか、バカにする、足を引っぱる、迫害する……と、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」という気になりがちです。

 しかも、修行は楽でもなければ、短くもない。やってもやっても終わらない。「ああ、疲れた。もういやだ。もうダメだ」という気分になりがちです。

 でも、そこがポイントだ、とアサンガはいいます。

 その時こそ、忍辱と精進が修行できる。人に評価されず、誤解され、迫害される時こそ、忍辱のチャンスだ。疲れ切って、燃え尽き、くじけそうな時こそ、精進のチャンスだというのです。

 ものは見方でいろいろに見える=唯識です。見方を変えれば、危機(ピンチ)が好機(チャンス)に見えてきます。

 リストラされた時、倒産しそうな時、家庭がもめている時、なにもかもうまくいかないように思える時は、見方を変えれば自己成長のチャンスですが、なかなかそうは思えません。

 そういう時こそ、禅定と智慧を実践しましょう。実践した分だけは確実に心が楽になり、爽やかになります。

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心をさわやかにする6つの方法:唯識のことば10

2017年02月02日 | 仏教・宗教

 多くの人がさわやかに生きたいと望んでいると思うのですが、私も含めてなかなかさわやかには生きられません。

 それはなぜか。

 唯識の答えは「たいていの人にマナ識――無意識的な自己実体視・自己中心視の心――があるから」ということです。

 しかもその「たいていの・ふつうの人=凡夫」とは、ひとのことである前にまず自分のことです。

 私にマナ識があるかぎり、いつもさわやかに生きることはできないのです。

 もちろん、ひとや外のことが私のマナ識の思いどおりになった時だけはいい気分-いい気になれますが、いつも思いどおりになるとはかぎらない……どころか、思いどおりにならないことのほうが多いのがこの世です。

 私たちはすでにそういう明快な答えを学んで知っているし、納得したはずなのですが、何か嫌なこと、つらいこと、苦しいことに遭うたびに、ひとや外の原因が主な原因、それどころか原因のすべてだと思ってしまいがちです。

 しかし「すべては心しだい=唯識」でした。

 確かにひとや外のことはきっかけにはなります。

 でも、最終的にさわやかになれるかどうか、結局は自分の心の姿勢しだい……と言われてもなかなかいったん付いた心の姿勢の歪み・くせは直らない。

 怒りぐせ、恨みぐせ、妬みぐせ、落ち込みぐせ……。

 そういう心のくせを直すトレーニングが六種類ある、というのが六波羅蜜で、「菩薩は、この正しい法のなかにある」はずでしたね。

 私もしょっちゅう忘れてしまうので、復習です。


 悟入の原因・結果の勝れた相はどのようなものだと知るべきであろうか。

 六波羅蜜による。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という波羅蜜である。……

 菩薩は、この正しい法のなかにある。

 富や楽しみに執着しない心と、戒律について犯すことのない心と、苦にあっても負けることのない心と、善を実践することについて怠けることのない心と、さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる。

                       (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 ①「富や楽しみに執着しない心」、求めてはいけないのではなく、ポイントは執着しないことにあります。

 ②「戒律について犯すことのない心」、さわやかになるためのルールを守ろう、と。

 ③「苦にあっても負けることのない心」、苦に負けることは、自分のためにも誰のためにもなりません。気を取り直して生きましょう。

 ④「善を実践することについて怠けることのない心」、休むことは必要、怠けることはいけません、と。

 ⑤そして何よりも、「さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に」、禅定の安らぎを楽しみましょう、と。

 ⑥そうすると、「理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる」、私の思いや都合で見たのではない、ありのままの世界が見えてきて、そうしたらさわやかになれるのでした。


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真理を維持できる人:唯識のことば9

2017年02月01日 | 仏教・宗教

 どのような存在を「習気」(じっけ、残存影響力)と名づけるのか。この「習気」という名前は、どのような意味を表わそうとしているのか。

 この存在は、それ(識)と対応して、共に発生し、共に消滅し、後に変化してそれが発生する原因となる。……

 もし、多く〔真理を〕聞く人であれば、多く聞いた習気がある。

 聞いたことをくり返し思うということが、心と共に生滅する。

 それが、くり返し発生すると、心の明らかな了解の発生する原因となる。

 これによって熏習(くんじゅう)は、堅固さと定着性を得ることができる。

 それ故に、こうした人を、真理を維持することができる〔人〕と説く。 

                         (『摂大乗論現代語訳』より)


 唯識やコスモロジーを学ぶ人――筆者も含め――がほとんど例外なく体験するのは、最初学んだ時は新鮮な感激と納得があったのに、しばらくすると飽きてきて他のことに気が散ったり(散乱)、せっかく学んだことを忘れてしまって(失念)、また腹が立ったり(忿)、落ち込んだり(惛沈)、忙しくてそれどころではないという気分になって禅定をさぼったり(懈怠)……元の煩悩だらけの状態に後戻りすること(退行)です。

 ここで大切なのは、例えば腹を立ててしまった自分に腹を立てるとか、落ち込んだことに落ち込むという、煩悩の二重塗りをして、「おれってダメだな」と自己嫌悪に陥ったりしないことです。自己嫌悪と反省(慚・愧)は似て非なるものですから。

 内的反省(慚)とは、筆者の理解では、「自分にはアーラヤ識という覚りの根拠が確実にあるにもかかわらず、今回はそれを生かせなかったな。それは自分にとってとても損なことだった。次回はきっと生かそう。生かせるに決まっている」という気づきと決心です。

 対他的反省(愧)とは、「せっかくいいつながりのチャンスが与えられているのに、あの人との関係ではそれが生かせなかった、どころか壊してしまった。あの人にも私にも損をさせてしまった。残念だった。これからは、つながりのチャンスを逃さないようにしよう」という気づきと決心です。

 煩悩が起こってしまった後で、こうした反省ができるには、唯識の学びがしっかりと心の奥底に熏習されていて、必要な時に自然に思い出されるようになっていなければなりません。

 そうなるためのキーワードが「多聞(たもん)」と「習気(じっけ)」と「熏習(くんじゅう)」です。

 繰り返し聞き、繰り返し読み、繰り返しそのことを考える、つまり意識します。

 それから別のことに意識が移ると、それは意識からは消えますが、無くなるのではく、その「習気」は心のもっとも深いところ・アーラヤ識に熏習されていきます。

 そうすると人生で重要なことについてのしっかりとした理解が確立・定着していきます。

 必要な時にいつでも学びを思い出せる、というか学びが心に浮かんでくるようになった人が、「真理を維持することができる人」と呼ばれます。

 そういう真理を維持できる人になりましょう。それは、他人のためである前に、まず自分が気持ちよく生きるため、自分の心をさわやか(軽安)にするためです。



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