心をさわやかにする6つの方法:唯識のことば10

2017年02月02日 | 仏教・宗教

 多くの人がさわやかに生きたいと望んでいると思うのですが、私も含めてなかなかさわやかには生きられません。

 それはなぜか。

 唯識の答えは「たいていの人にマナ識――無意識的な自己実体視・自己中心視の心――があるから」ということです。

 しかもその「たいていの・ふつうの人=凡夫」とは、ひとのことである前にまず自分のことです。

 私にマナ識があるかぎり、いつもさわやかに生きることはできないのです。

 もちろん、ひとや外のことが私のマナ識の思いどおりになった時だけはいい気分-いい気になれますが、いつも思いどおりになるとはかぎらない……どころか、思いどおりにならないことのほうが多いのがこの世です。

 私たちはすでにそういう明快な答えを学んで知っているし、納得したはずなのですが、何か嫌なこと、つらいこと、苦しいことに遭うたびに、ひとや外の原因が主な原因、それどころか原因のすべてだと思ってしまいがちです。

 しかし「すべては心しだい=唯識」でした。

 確かにひとや外のことはきっかけにはなります。

 でも、最終的にさわやかになれるかどうか、結局は自分の心の姿勢しだい……と言われてもなかなかいったん付いた心の姿勢の歪み・くせは直らない。

 怒りぐせ、恨みぐせ、妬みぐせ、落ち込みぐせ……。

 そういう心のくせを直すトレーニングが六種類ある、というのが六波羅蜜で、「菩薩は、この正しい法のなかにある」はずでしたね。

 私もしょっちゅう忘れてしまうので、復習です。


 悟入の原因・結果の勝れた相はどのようなものだと知るべきであろうか。

 六波羅蜜による。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という波羅蜜である。……

 菩薩は、この正しい法のなかにある。

 富や楽しみに執着しない心と、戒律について犯すことのない心と、苦にあっても負けることのない心と、善を実践することについて怠けることのない心と、さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる。

                       (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 ①「富や楽しみに執着しない心」、求めてはいけないのではなく、ポイントは執着しないことにあります。

 ②「戒律について犯すことのない心」、さわやかになるためのルールを守ろう、と。

 ③「苦にあっても負けることのない心」、苦に負けることは、自分のためにも誰のためにもなりません。気を取り直して生きましょう。

 ④「善を実践することについて怠けることのない心」、休むことは必要、怠けることはいけません、と。

 ⑤そして何よりも、「さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に」、禅定の安らぎを楽しみましょう、と。

 ⑥そうすると、「理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる」、私の思いや都合で見たのではない、ありのままの世界が見えてきて、そうしたらさわやかになれるのでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする