衆生に背を向けない難しさ:唯識のことば19

2017年02月15日 | 仏教・宗教

 大乗が、小乗よりすぐれているのは、十種類の難行を行なうからだ、と摂大乗論はいいます。

 第一、第二も確かに困難ですが、第三はある意味でさらに困難です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…

 十種の実行しがたい正しい行を包括している。…

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…

 第二は撤退しないという難行である。生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

                     (摂大乗論第七章)


 第一、第二は自分のことですから、自分が努力すればなんとかできることですが、三は他の人々のことなので、自分では当面どうすることもできないことが多いので、いっそう困難です。

 良心的で純粋な人にありがちなのは、いろいろ悪い出来事を見聞きし、世の中・人々があまりにも醜く、それをどうすることもできないというので、すっかり嫌になってしまうことです。

 筆者もかつて割にそういうタイプでしたから、気持ちはよくわかります。

 しかし、唯識を学ぶにつれて気づいてきたことは、そういう純粋さは「善人という名の凡夫」の心だということです。

 「どうしてあんなことをするのかわからない」、「信じられない」、「なんてひどいんだ」…といったことばで表現されるような気持ちの裏には、善である自分と悪である他者や社会が完全に断絶・分離しているという思い込みが潜んでいるようです。

 驚いて理解できず(せず)、怒り、悲しみ、非難し、そして嫌になって心理的にも物理的にも、それと自分を分離しようとする(印象が強い間はひどく嫌悪し、しかしやがて忘れる。あるいは、巻きこまれないように逃げたり、避けたりする)のは、ふつうの健全な市民(凡夫)としてはとても自然なことです。

 筆者はここで、市民としてのごく健全な心情や行動は、とりあえずあくまでも健全なものだといっておきたいと思います。

 菩薩的な水準から市民を裁いて「ダメだ」というのは、それは適切ではないと思うからです。

 それは幼児に大人のようなことができないからといって、「ダメだ」というのに似ています。

 菩薩的な心の水準は、目指したい・目指せる段階にきた人自身の理想・目標であって、他人や自分を裁く秤ではありません。

 しかし菩薩を目指すのなら、その発達水準に近づこうとする努力は必要です。

 初歩の菩薩でも、まだ完全にではないにしても、自分と他者とは区分できても分離はしていない、できないということを知っているはずです。

 悪をなす衆生も、自分とつながってひとつであり、広く深い意味では自分なのです。だとしたら、背を向けることはできません。

 自分がまずいことをしても、それは自分ですから逃げることはできません。

 まずいと気づいたら、どんなに困難であっても、なんとか、ひたすらそれに直面して改善をしようと努力するほかないのです。

 筆者も、心痛む事件が起こるたびに、善良な市民的に嫌悪や絶望で反応するのではなく、菩薩的に対応しようと思い直します。

 確かに難しいことで、いつもできているわけではありませんが、なるべくそうありたいと思っています。

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