ふつうの人・凡夫が、人生のいろいろな悩みに出会ってなんとかそれを乗り越えたいと思ったり、すばらしい教えに感動したりして、修行を始めると、そこで覚りを求める者・菩薩になります。
どんなに初心であっても、どんなに煩悩だらけでも、どんなに愚かでも、菩薩は菩薩なのです。
初めて覚りたいという心を発したのを「初発心(しょほっしん」といい(「新発意(しんぼち)」ともいいます)、はっきりと覚りたいと思ったら、それが「初発心」であり、そこで初発心の菩薩になります。
もっともまだあまりの凡夫の状態で、とにかくやっと修行を始めたばかりだと、「凡夫の菩薩」という言い方もあります。
私たちも、その程度かもしれませんが、でもやはりもう菩薩なのです。
しかし長い仏教の修行の歴史のなかでは、いったん凡夫の菩薩になってももとの完全な凡夫に「退行」する人もしばしばいたようです。
それは現在と変わりません。
きっかけになった悩みが少し軽くなると、もう修行が面倒になってきたり、最初の感動が薄れてきて、なかなか実感できるような進歩がない、効果があがらないとなると、いやになってきたり、そこそこの体験があったり、ある程度の境地に到ったら自己満足してしまったり……と。
初発心の時点からしばらくすると、ほとんど法則的といってもいいくらいに、停滞、退行の危険が忍び寄ります。
人間成長・修行にとって、そこが一つの関門です。
アサンガ菩薩は、おそらくみずからもそういう体験をしたのでしょうし、後輩、弟子たちが、そうした関門で行きどまってしまうのをたくさん見たのでしょう。
『摂大乗論』のあちこちに、退行への警告と、関門を突破して前進するようにという励ましのことばがちりばめられています。
もし菩薩が初発心から成仏に到るまで、飽き足りることのない心を捨てなければ、これを菩薩の長い時間の意志と名づける。
(『摂大乗論現代語訳』第四章より)
菩薩には、ぜひ「長い時間の意志」、持続する志が必要です。どこかで倦み疲れたり、飽き足りたりしないで、精進しつづけること、それが菩薩の志というものなのです。
初発心から成仏までは、唯識では三大カルパというおそるべき長い時間がかかることになっていますが、それでもどこかで満足してしまわない、あきらめてしまわない、へたばって坐りこんでしまわない。
なかなかむずかしいことですが、せっかく人間、つまり覚る可能性をもった存在として生を受け、しかも幸運にもすばらしい道を見つけ、歩みはじめたのですから、途中でやめるなどというもったいないことはしたくないものです。
自己満足しかかったら、人間にはほとんど無限の成長可能性があることを思い出して、疲れていたら少し休んでからでいいから、もう一度、前に向かって歩き出しましょう。
これは、読者に向けていう前にまず自戒のことばです。