東尋坊で思ったこと

2006年07月24日 | 持続可能な社会
 明後日、曹洞宗大本山永平寺での催しで講演をさせていただくことになっています。

 道元禅師の『正法眼蔵』はそろそろ40年読んできた「私の古典」であり、その道元禅師の創建された大本山永平寺で講師として話をさせていただくのは、きわめて名誉なことであり、大きな喜びです。

 その『正法眼蔵』の有名な巻である「山水経(さんすいきょう)」の冒頭に、次のような美しい言葉があります。

 而今の山水は古仏の道現成なり。
(にこんのさんすいはこぶつのどうげんじょうなり。)

 「今目の前にあるこの山と河は永遠なる仏の真理がありありと実現したものである」というふうな意味でしょう。

 これは、道元禅師が京都におられた頃に書かれたものであり、とすればこの「山水」は直接には京都深草あたりの山や川のことでしょうが、永平寺に近い白山や九頭竜川などを見ると、むしろこうした雄大な風景こそ、この言葉にふさわしいという気がします。

 といっても、実は福井、永平寺に来るのはまだ二度目です。

 せめて、雄大な絶壁の風景で有名な東尋坊くらいは見ておきたいと思って、今日、小雨の中を行ってきました。





 東尋坊のみごとな岩場は、新生代第3紀にマグマが噴出しやがて固まってできたものだそうです。

 これもまた、「古仏の道現成」、コスモスの働きのありありとした現われにちがいありません。





 晴れていたらもっとすばらしい日本海の風景も見ることができたのにな、とやや残念でした。

 それよりももっと残念だったのは、プラスティック、発泡スチロール、ビニールといった、なかなか自然に還らないゴミが、何十メートルもある崖の上から見てもわかるくらい、岩場に打ち上がっていたことです。

 さらにそれだけではなく、バス停から岩場まで、いくつもの食堂などが廃業しているのが、物悲しい感じを誘いました。

 地方には景気の回復など及んでいないようです。

 自然は汚れ、地方はさびれていくばかり、今の日本はどう考えても道をまちがっているのではないか!という怒りと嘆きが湧いてきて、ただ楽しく観光とか、自然の美しさに感動するだけでいられないのが、物書きとしては、さらにさらに残念でした。

 高浜虚子や三好達治の句碑、詩碑が立っていましたが、彼らは私のように余計なことを考えないで、ひたすら自然の美しさを詠うことのできる時代に生きたという意味で、うらやましい、と思ったことです。





 無条件に礼賛できる自然の美しさと、ことごとに物悲しさを感じないでいい豊かな生活を、私たちは何としてでも再獲得する必要があるのではないでしょうか。

 でなければ、大自然や道元禅師や私たちのご先祖さまに申し訳がたたない、と改めて思いました。



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コメント (5)
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