唯識を学んで元気になろう!

2006年01月31日 | 生きる意味

 大乗仏教の標語とさえいえる「空」や「無」という言葉は、かなり誤解を招きやすい言葉です。

 言葉の印象で、「すべては空しい」とか、「結局はすべて無になってしまうのだ」とか、「この世には絶対的な意味や価値・倫理の基準などないのだ」というニヒリズム的な意味に誤解されがちです。

 大学の授業ではネット授業以上にくわしく「空」の正しい意味を説明するのですが、それでも「話を聞いていたら、なんだか、すべて空しいような気がしてきました」という学生がいたりします(ネット学生のみなさんは、だいじょうぶですか?)。

 「空」への誤解は、仏教の外部だけではなく内部にさえあったようで、そういう人は「悪取空者(あくしゅくうしゃ)」つまり空を間違って取る人と呼ばれました。

 大乗仏教の流れの中で、そうした誤解を解くためにより説明のくわしい体系的な理論が工夫されました。それが、「唯識(ゆいしき)」という教えです。

 「大乗仏教の経典」のところでお話しましたが、紀元2,3世紀頃、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるいろいろなお経が作られた中に、唯識の一番古い経典である『解深密経(げじんみっきょう)』や、今日ではもうサンスクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』があります。

 ……と、このあたりの話をしていると、退屈して居眠りを始める学生がいるので、ちょっとここで目覚ましのために、注意してほしいことがあります。

 世界の思想史を調べてみると、どうも人間は文明を形成し、動物的な自然から離れた自意識的な生活をするようになって以来ずっと、近現代に到るまで、「空しさ」・「ニヒリズム」の問題に悩まされてきたようです(例えばパスカルや、典型的にはニーチェ)。

 (あまりそういう問題に悩まされない能天気な人もけっこういるようで、それはそれでとりあえずいいんじゃないか、と私は考えていますが。)

 「生きてても意味ないんじゃないか?」という問いは、あなただけの個人的・特殊な問題ではないんですね。

 ゴータマ・ブッダの教えも大乗仏教の空の思想も、その無意味感・不条理感と取り組んで、克服しようとしたものだ、といっていい面があります。

 そして、ブッダ自身や大乗の菩薩たちの境地としては、もちろん克服できていたのだと思われます。

 しかし、言葉による説明としてはまだ誤解される危険が残っていたのです。

 そこで、さらに何とか誤解をなくそうと、新しい説明体系が考え出されたのが唯識という仏教哲学でした。

 「空しさ」との闘いは、何と二千五百年も前から続いているけれども、実はすでに千七、八百年前、唯識によって、みごとに一つの決定的な思想的決着はつけられていたのだ、と私は捉えています。

 ですから、唯識を学んだ学生たちが、「胸がいっぱいなるほどの幸せな気持ちと感謝の気持ちがこみ上げてきます」、「生きる力が湧いてきました」、「絶望と孤独とかいった人間のさびしさから救ってくれる、魔法の言葉だと思います」というふうな感想を述べてくれるのです。

 しかもそれは、特定の教祖・教義・教団などを絶対視するという意味での「宗教(呪術的・神話的宗教)」を信じ込むことによって生まれた気持ちではありません。

 理性的・哲学的な普遍・妥当性がある理論を学んで納得し、しかもそれを超える「霊性」への目覚めを感じたことによるものなのです。

 そのことを私はわかりやすく、「心の眼を開けて、自分の元々の姿、自分の根づくと〈元気〉になるんだよ」と説明しています。

 では、みなさん、これから、唯識を学んで元気になろう!



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コメント (5)
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