「空」は、「如(タタター)」や「法(ダルマ)」と同じ事実を指し示した言葉です。
世界には分離した実体はひとつもありませんが(無我)、すべては果てしなくつながっていて(縁起)、ひとつであり、ダイナミックに動いています(無常)。
それが世界のあるがままの姿(如)であり、真理(ダルマ)なのです。
とはいっても、あの現象とこの現象という区別はありありとあります。
その中でも、この生き物とあの生き物、さまざまな生き物が、それぞれ区別できる姿を持ってしかし根本的には1つのものとして、相互に関係を持ちながら生きています。
そういうすべてのものの根本的な一体性を自覚しているのが仏であり、深さの程度はいろいろあるにしても、それを深く自覚しようと修行しているのが菩薩です。
大乗の菩薩は、すべてが空であることを多かれ少なかれ覚っているわけですが、それはすべてのものとの縁起性・一体性を覚っているということでもあります。
一体性を覚っていながらそれぞれの区別も認識しているという菩薩の心が、必然的に、自然に、自分とはいちおう区別された他の生きとし生けるものへの「慈悲」となるのです。
他は区別できるという意味では自分ではありませんが、空という世界の中では自分と一体であり深い意味では自分だともいえます。
ですから、人の苦しみは私の苦しみになり、私の苦しみを私が放っておくことはできない、ということになるのです。
しかし、苦しんでいる他者もその苦しみを救うとしている自分も、本来は空・非実体ですから、ふつうの人間の過剰な欲望(渇愛)や執着(取)からはまったく解放されています。
こういうわけで菩薩は、まったく自発的に、まったく自由に、執着やこだわりから離れて実にさわやかに、自分と一体である他者のためになることをしていくのです。
大乗仏教における「空」と「慈悲」の関係を、あえて理屈でいえば、こういうことになるでしょう。
『維摩経』(長尾雅人訳、中公文庫)に菩薩の慈悲の心をみごとに表現した個所があります。
釈尊に命令されて維摩居士(ヴィマラキールティという在家の覚った人・菩薩)を智慧の象徴である文殊菩薩(マンジュシュリー)が見舞うというエピソードのところです。
「病気の原因は何か」という文殊の問いに、維摩はこう答えています。
……あらゆる衆生に病があるかぎり、それだけわたくしの病も続きます。もしすべての人が病を離れたなら、その時、わたくしの病もしずまるでしょう。……もしあらゆる衆生に病気がなくなったなら、そのときは菩薩にも病気はなくなるでしょう。たとえば、金持ちのひとりっ子が病気になったとき、その病気のせいで両親もまた病気になるようなものです。そのひとりっ子に病気がなくならないかぎり、両親もなやみ続けます。マンジュシュリーよ、それと同じく菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子のように愛するので、衆生がすべて病気であるかぎり彼も病気であり、衆生に病気がなくなったとき、彼も無病となります。マンジュシュリーよ、この病気は何から生じたかとお尋ねですが、菩薩の病気は大慈悲から生じるのです。
すべての生き物・衆生の病気を自分の病気として、一緒に苦しみ続け、苦しみを救い続けるのが、菩薩の大慈悲だ、というのです。
ただ思想・観念としてだけ学ぶと、「空」というのはとてもクールな哲学的な認識のように感じられますが、大乗の空は、こうした情熱的なまでの「慈悲」とひとつの心だといっていいでしょう。
そこから必然的に慈悲が生まれてこないような「空」の覚りは、大乗の覚りとはいえないわけです。
私が、空・智慧と慈悲という大乗の思想、というより生き方に感動するのは、そういうところです。
それにしても、大乗というのはほんとうにすごい思想ですね。
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