大乗仏教

2006年01月09日 | メンタル・ヘルス

 西暦一世紀前後、「大乗」と自称した新しい仏教の流れが興ります。

 先にもいいましたが、それまでの流れを批判して、「自分だけが学んで、自分だけが瞑想して修行して、自分だけが覚るというのは、それはいわば、迷いのこちららの岸から覚り・救いの向こう岸に行くのに、自分一人しか乗れない小さな乗り物・小乗だ。それに対して自分たちは、自分だけではなくてみんなで一緒に迷いや苦しみや悩みのあるこの世界から、そういうことがすべてなくなった向こうの世界にみんなで渡って行こうとする。そういう大きな乗り物なのだ」と主張する流れです。

 こうして、「小乗仏教」と「大乗仏教」という違いが出来たのですが、「小乗仏教」という言い方は、あくまでも大乗の側から見たやや偏りがある批判といえないこともありません。

 かつて「小乗」と呼ばれた流れが、今日まで東南アジアに伝えられていて、上座部またはテーラヴァーダといいます。

 実際に行って修行した方たちから聞いた印象では、そのお坊さんたちの修行の深さや境地の深さ、行ないの清らかさに関しては、「大乗仏教」を自称している日本のお坊さんたちの多くよりも徹底しているようです。

 そういう意味で、必ずしも「小乗仏教はだめ」とか、「劣っている」といえないところがあるようです。

 それはもちろん平均的なレベルの話で、東南アジアにも堕落した僧はいるでしょうし、日本にも立派なお坊さんはおられます。

 しかし、私の知る範囲では、特に戒律をちゃんと守っているかどうかという基準で、全体として平均的なレベルを比べると、どうも日本のお坊さん方はかなわないという評が多いようです。

 けれども、少なくとも、救いの目標を自分自身の覚りや救いにとどめず、自分と人々、さらに生きとし生けるものすべて(衆生・しゅじょう)と一緒に救われる・覚ることを目標にしたという点では、大乗の主張にはある種の妥当性がある、と私は評価しています。

 大乗を主張する新しい経典として、紀元1世紀前後から、まず『般若経(はんにゃきょう)』のさまざまなタイプのものが生まれてきます。

 『般若経』の一番最初のものは、八千ほどの詩句でできている『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』だろうといわれています。

 それがだんだん広げられ大きくなっていって、『十万頌』のものまで作られていきます。

 やがて長くなりすぎた『般若経』のエッセンスを最小限にまとめたものが、日本人なら誰でも知っているといってもいいほど有名な『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。

 そうした『般若経』で語られている「空(くう)」の思想は、以下の定型句とその意味が示しているように、ブッダから部派仏教までの教えを含んで超えるものだといっていいでしょう。

 「縁起だから空である」=「縁によらないで起こっているものは何もない」

 「無自性(むじしょう)だから空である」=「変わることのないそれ自身の本性をもったものは何もない」

 「無常だから空である」=「いつまでもあるものは何もない」

 「無我だから空である」=「実体として存在しているものは何もない」

 「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」

 これらのコンセプトに共通している「何もない」というニュアンスを「空」という一言でまとめ、かつ深めて捉えたのだと考えられます。

 ですから、「空」は、ありのままのほんとうの世界は「すべてがつながりあっていて、けっきょくは一つ」という面からいえば、「一」「一如」「真如」と表現することもできる事実を示しているのです。

 この「空」という言葉とちょうど逆なのが、「実体」というコンセプトです。

 西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものとの関わりなしに、変わることのないそれ自身の本性をもっていて、いつまでも存在できる」ようなものを「実体」と呼びます。

 「空」はまさにその正反対ですから、「実体がない」「無実体」あるいは「非実体」と言い換えることもできます。

 この「空」という事実を覚ることが無明を克服することであり、すべての苦を超えることになるというのです。

 「空」を覚ることは、「空」という思想を知ることとは違うことですが、まず知らないことには覚りたいという気にもなりませんから、次回から、もうすこしくわしく、でもできるだけわかりやすく「空」思想についてお話していくことにしましょう。


ブログランキング・にほんブログ村へ

人気blogランキングへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする