八戒、十戒、二百五十戒:戒の話 3

2006年05月31日 | メンタル・ヘルス

 五戒の次に「八戒(はっかい)」または「八斎戒(はっさいかい)」と呼ばれるものがあります。

 これは、在家の人が特定の時に限って守り、いわゆる精進潔斎(しょうじんけっさい)をする場合の戒です。

 五戒に、「不塗飾香鬘舞歌観聴(ふずしょくこうまんぶかかんちょう)」、香料を塗ったり髪を飾ったりせず、踊りを見たり、歌を聞いたりしないこと、「不眠高広厳麗床上(ふみんこうこうごんれいしょうじょう)」、高くて広くて豪華で美しい床で寝ないこと」、「不食非時食(ふじきひじじき)」、決まった時以外に食事をしないことが加わります。

 簡単にいえば、贅沢、華美なことをしないで身を慎むということでしょう。

 余談ですが、『西遊記』の猪八戒の名前はここから来ています。彼がいぎたなくて食欲、性欲などのコントロールがきわめて苦手だったからこそ、この八戒を守るようにという意味で、三蔵法師がつけたわけです。

 それから、さらに多くなるのが「十戒(じゅっかい)」または「十善戒(じゅうぜんかい)」です。

 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語までは五戒と重なり、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」、二枚舌を使わないこと、「不悪口(ふあっく)」、人の悪口をいわないこと、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わないこと、「不貪欲(ふとんよく)」、欲張らないこと、「不瞋恚(ふしんい)」、腹を立てたり恨んだりしないこと、「不邪見(ふじゃけん)」、因果・縁起の理法を否定するような考えをもたないことの5つが加えられています。

 これも在家、出家共通の戒ですが、特に在家の信者の熱心な人には、この「十善戒」が授けられ、守るように教えられました。

 お酒の好きな人は、不飲酒が省かれているので、ほっとするかもしれません。

 かつての日本人の真面目さ、潔癖さ、正直さ、真面目さ、やさしさ、柔和さ、質素さといった美点は、先にお話した五戒や、こうした十善戒の心がお寺でのいろいろな機会に語られたお説法などを通じて庶民に滲み込んでいったことで育まれたという面がかなり大きいと思います(それは寺子屋で儒教が説かれたことと並行しています)。

 かつて私自身、仏教の意味は高尚で難解な教理や厳しい修行によって到る深い境地などだけにあると思いがちでしたが、現代のように荒廃してきて初めて、こうした一見当たり前のようにも思える、日常的な戒めがどんなに大切なところで日本人の精神性を育んできたのか、見直さなければならないと思うようになりました。

 人間は、倫理も含めてすべてのことに関して、教えられなければ学ぶことは困難です。

 私たちは、仏教だけに通用するのではない、普遍性のある、こうした十善戒のようなことをちゃんと子どもたちに教えることのできる教育制度を考えなければならないのではないか、と思います。

 (ただし、これまでお話してきたことと矛盾するように思われる方もあるかもしれませんが、私は現在の教育基本法の改正には疑問を感じています。

 民主主義というのは、議員の多数決という手続きを経ればそれでいいというものではないからです。

 教師〔つまり教育の現場を担う国民〕の大多数との合意が十分に形成されないところで――現状では形成されているとはまったく思えません――法律だけが制定されると、それは罰則を伴って強制的に執行されることになりかねません。

 強制によって本当には納得できていないことを教え-教えられることは、教育者にも子どもにも心の大きな歪みを生み出すことはほぼ確実です。

 心の歪みをもたらすようなものは教育とは呼べないでしょう。

 教育とは呼べないものを強制する法律を「教育基本法」として制定するのは、民主主義国家の国民のために存在している政治家としてやるべきことではありません。

 本当に意味のある改正をしたいのなら、何年かけても何十年かけても、国会議員の過半数だけではなく、現場の教師の大半が心から納得して子どもたちに伝えることのできるように中身の徹底的な合意形成に努力するべきだと思います。

 そのためには、これから国民の大半、教師の大半、そしてその代表としての国会議員の大半が心から納得できる日本のコスモロジーの創造から取りかかる必要があるのではないか、というのが私の意見です。

 拙速は、まさに速いだけできわめて拙いのです。

 「○年もかけて議論してきたのだから、もういいのではないか」という話ではありません。

 長い横道の、しかし大切なコメントでした。)

 さて、出家者すなわち僧が、守るべき戒はこんなものではありません。

 250もあるのです。「二百五十戒」といいます。

 さらに尼僧はもっとたくさんの戒を課せられます。

 しかし、これはお坊さんではない読者のみなさんにはあまり関心のないところでしょうし、正直なところ私も細かく正確には学んでいませんので、この授業では省きたいと思います。

 最後に、唯識の代表的古典の1つ『摂大乗論』(真諦訳)で、戒について述べられていることを紹介しておきたいと思います。

 そこでは、戒には3つあるといわれています。

 第1は「摂正護戒(しょうしょごかい)」といい、これは要するに、守るべき戒を正しくちゃんと守るということです。

 これは「戒」という言葉の一般的な意味そのままで、特別な特徴はありません。

 第2がいかにも大乗仏教らしい戒の捉え方で、「摂善法戒(しょうぜんぽうかい)」といいます。

 すべての善いことは全部やるという戒なのです。

 消極的にやってはならないことをやらないというだけではなく、やるべきことやるというだけでもなく、もっと積極的にやれる善いことは何でもやるというのですから、すごい話です。

 第3はいっそう大乗仏教らしく、衆生の利益になることなら何でもやるという戒、「摂衆生利益戒(しょうしゅじょうりやくかい)」です。

 第2、第3の戒は、もういわゆる「戒律」という言葉の印象から来るような窮屈な堅苦しい話を超えて、やれる善いことなら何でもやろう、衆生のためなら何でもやろう、という柔軟でスケールの大きな生き方の方針とでもいうようなものです。

 そして大胆にも、もし第1の意味での戒を破ることが衆生のためになることだったら破ってもいいと第3の「摂衆生利益戒」ではいわれています。

 まさにすべての衆生を救いたいという大乗の菩薩の願いにふさわしい「戒」のあり方ですね。

 まだまだベッドで寝たきりからようやく起きあがって、初歩の初歩のリハビリを始めたばかりの菩薩である私たちには、難易度の高すぎてうっかりすると怪我をしかねない戒ですが、究極の理想、指針として心にしっかりと留めておきたいものです。



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コメント (1)
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