成所作智(じょうしょさち):最高に開いた感性

2006年05月11日 | メンタル・ヘルス





 無意識と意識が変容すると、それに対応して五感まで変容する、といわれています。

 実体としての自分にこだわっている間は、見るもの聞くものすべてを自分の好みや都合によって判断します。

 そして、自分の好きなものだけを見たり聞いたりしようとします。

 自分の嫌いなものは見たり聞いたりしたくないので、意識的、無意識的に避けようとします。

 しかしまた、嫌いでも自分の都合に関係していることは嫌がりながらも気になってしまいます。

 さらに、自分に関係がないと思っている――実は関心がないだけなのですが――ものに対しては、まったく冷淡、無視、知らんふりです。

 コスモスのありのままを感じるというのとはまるで違いますね。

 そういう、コスモスにあるものを自分の都合で選別して感じているというのは、ふつうの人のごくふつうの感性のあり方です。

 どこがいけないというのでしょうか? ずっと学んできた方は、もうおわかりですね。

 コスモスとそのなかのすべてのものは一体です。

 しかしもし、真っ白なのっぺらぼうのような、真っ暗な深淵のような、どろどろの混沌のような一体だったら、すべてのものの区別はなく、したがって関係というものものなかったでしょう。

 例えば私一人だけだったら、独り言・モノローグしかできません。

 あなたと私が区別という意味で別人であるからこそ、関わり・つながることができ、対話・ダイアローグ・コミュニケーションができるのですね。

 コスモスもただ一つであるままだったら、そこにはどんな関係もコミュニケーションもなかったでしょう。

 それは、想像しただけでも退屈そのものの世界です。

 しかしとても楽しく幸いなことに、コスモスは区別とつながりとコミュニケーションに満ちたところです。

 コスモス全体とその中に生きている私たちの関係で考えると、コスモスはいつも私たちに実にさまざまな豊かなメッセージを送っているということができます。

 コスモスの一部としての五感は、本来はそうしたコスモスのメッセージの受容器官なのではないでしょうか。

 ところが、私たちは自分の関心によってコスモスのメッセージをきわめて限定して選択的にしか受け容れていないのです。

 しかもしばしば歪めて受容してしまいます。

 これはまず、コスモスのありのままを感受していないという意味でまちがいですね。

 さらに、それはコスモスの豊かなメッセージを聴いていないという意味で、とても貧しい、つまらないことです。

 つまり、そこがいけないのですね。

 ところが、私たちの感性はコスモスの豊かで美しいメッセージを聴くことのできる感性に変容しうるというのです。

 見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、体感することのすべてにおいて、もっとも自然ななされるべきことを成し遂げることのできる智慧に変わるのです。

 「作されるべき所のことを成す智慧」という意味で「成所作智(じょうしょさち)」と呼ばれています。

 「感性が開く」とか「豊かな感受性」という言葉がありますが、成所作智は世界で最高に開いた感性、もっとも豊かな感性のあり方だ、といってもいいと思います。

 もちろん五感が感じるべきもっとも自然なことを感じるようになれば、五体もなすべきことを自然に成し遂げるようになります。

 そういう豊かに開いて生き生きとした五感・五体で感じ、生きる世界は、どんなに美しく感動的でしょうか。

 前回も言いましたが、これは片鱗を体験しただけでもすばらしい! 完璧になったら、この上ない生きる喜びを感じることができるにちがいありません。

 心豊かに生きたいと思われる方、成所作智――を含む四智――を目指しましょう。



↓というわけで、是非、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする