ボランティアと布施

2006年05月27日 | 心の教育





 私たちがぺこぺこにお腹が空いている時に、足が歩きまわり、目や鼻などが食べ物のある所を見つけ、手が口に運んで、舌が美味しさを感じ、胃や腸が栄養を吸収する、という場合、足や目や鼻や耳や手が一方的に損をして、口や舌や胃や腸が一方的に得をしているわけではありません。

 それと似て、私たち人間が深いところでは一体――つまり一つの体――なのだとしたら、私が足や目や鼻や手の働きをし、他の人が口や舌や胃や腸の働きをしたとしても、私が損をし人が得をするわけではありません。

 一体である全身・全体のために体の各部分が、それぞれにふさわしい働きをしているだけのことです。

 「布施」は、そういう深い事実に目覚めて自他の深い生きる喜びを感じられるようになるために行なうリハビリやトレーニングのようなものなのでしたね。

 「私のため」と「人のため」がほんとうには別のことではなく、同じ「私たちのため」であることを実感したいので、練習をするわけです。

 布施は、「私が何かを人にあげる」というかたちの上では、いわゆるボランティアやチャリティ(慈善)と似ています。

 そして公平に見て(のつもりですが)、日本近代でいえば、仏教には布施という理想ないし建前はありながら、実行の点ではキリスト教のチャリティ、ボランティアには一歩も二歩も譲るところがあったと思います。

 しかし、布施はその目指す精神性においては、ある意味でボランティアよりも深い、あるいは高いといえるのではないでしょうか。

 キリスト教的なものであれ、ヒューマニズム的なものであれ、ボランティアは、「私」が「何か」を「人」にあげる、というかたちになりがちです。

 つまり、私と人と物が別の分離した存在であるという考え方が大前提になっており、何らかの意味でより多くの物をもっている私が、もっていない人に同情して、私の物をあげるというかたちになっているのではないでしょうか。

 (キリスト教的チャリティでもきわめて深い場合は、神の子が神のものを神の子のために使う、という精神、アガペーという愛の精神で行なわれることがありますが。)

 そういうボランティアは、下手をすると――うまくいっている場合ももちろんあるのですが――いくつかの問題を引き起こします。

 1つは、私が私の物を人にあげることによって、精神的な見返り(例えばやりがい、生きがい、誇り、喜び…)を求めているため、見返りがなかったら嫌になってしまうことがしばしばあるという限界です。

 ボランティア関係者の方によく見られる燃えつき症候群(バーンアウト・シンドローム)の大きな原因の1つ(すべてではありませんが)は、自分のしたことへの精神的な見返りがないという思いのようです。

 2つは、多くもっている=優越している私 対 少ししかもっていない=劣等なあなたというかたちになると、時としてしてあげる相手につらい劣等感を感じさせ、心理的に傷つけてしまうことがあるということです。

 3つは、可哀そうな人のためにいいこと・立派なこと・優れたことをしてあげている私という優越感が固まった傲慢な人間を生み出すことがあるという点です。

 率直にいって、福祉関係者の方の中には、もちろん本当に頭の下がるすばらしい人格の方もおられますが、かなり時々――微妙な表現ですね――えらそうで嫌味な方もいないではありません。

 こういう話をする時にはいつも但し書きをするのですが、これは、「だからボランティアには無理があるし、もとともと偽善なんだ。そんなものはやめてしまえ」といいたいのではありません。

 人のためにいいことをすることは、もちろんいいことです。

 昔、若気の到りで、牧師をしていた父に「偽善者は全然ダメだね」というふうなことをいったら、「まあ、偽善も善のうちじゃからのう。悪事を働くよりはええんじゃないか」――瀬戸内海の方言ではこういう言い方をするのですが――といわれて、深く深く「なるほど」と思ったことを思い出します。

 少々偽善的でも善行は進んで行ないましょう。

 言葉の意味からしても、ボランティアとは「自発的に進んで行なう人」ということですね。

 しかし私は、ボランティアをしている、あるいはしようとしている学生たちには、「ボランティアを布施の心でやれると、もっといいんじゃないかな」といいます。

 広く深い意味での私つまりコスモスが、私のものを、私のために動かすだけなら、別に見返りはいりません。

 本気でそう思えれば、見返りがなくても嫌になったり燃え尽きたりしないでしょう。

 そういう思いで――つまり平等性智に近づくべく努力しながら――行なえば、優越―劣等という分離した関係で相手を傷つけることも少なくなるでしょう。

 痛い左手を痛くない右手が撫でても、それは当たり前のことで、右手が左手より優れているわけではなく、撫でられた左手がしてもらった負い目や劣等感を感じることはありません。

 もちろん、右手がえらそうに「やってやった」と優越感に浸ることもありえません。

 布施の心で行なえば、傲慢な心になる危険が避けやすいでしょう。

 凡夫あるいはごく初歩の菩薩である私たちは、自他の分離を前提にしたボランティアをしていろいろな点で行きづまることがありがちです。

 ぜひ、つながって1つだから自然にする・せざるをえないという慈悲を目指すリハビリとしての「布施の心」で、そういう限界を超えていきたいものです。



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