妙観察智(みようかんざっち)――すばらしい洞察の心

2006年05月10日 | メンタル・ヘルス

 心が奥底――奥・マナ識と底・アーラヤ識――まで変容してしまえば、当然、意識も徹底的に変容します。

 いつでも自分を含めた宇宙全体が一体であるけれどもその中のものそれぞれにはくっきりと区分があること、区分はあるけれども果てしなくつながっていて結局は一体であるというすばらしい事実に、いつも自然に目覚めている、いつも洞察ができているという心の状態です。

 すばらしい事実を洞察・観察する智慧という意味で「妙観察智(みょうかんざっち)」と呼ばれています。

 これは、私たちのような頭・意識で学んでわかってそう思う、あるいは思うようにしているという状態とは質的にまったくちがいます。

 前にお話しした譬えで言えば、徹底的にガット(胆)に収まっているのでたえずハートに実感がありくっきり明晰に頭も含めた全身心で目覚めているといった感じでしょうか。

 自分と人、自分と物、自分と宇宙が一体でありながら区別できるそれぞれのかたちをもって存在していることに気づいているのを「真実性から依他性、一つからつながり」というのでしたね。

 「分別性から依他性、ばらばらからつながり」という方向でものを見ると、考えること、感じること、することすべて煩悩になっていくのでした。

 もっともよくわかる人間関係のことを考えて見ましょう。

 個々人がばらばらに分離して存在していて、それからつながり・関係を作っていくのだと思っていると、まず自分にとっていいつながりがあると、それに過剰に愛着・執着して愛別離苦に苦しむことになります。

 また、自分にとっていいつながりがないと孤独に悩まされます。

 それから、悪い関係にもこだわりを感じて怨憎会苦に苦しみ、怒ったり、恨んだり、嫉んだり、傷つけたり傷つけられたり……します。

 愛別離苦や怨憎会苦で心が乱れるのが嫌で、人に関わるまいと引きこもると、これまた孤独に苦しむことになります。

 しかし、もともとすべてはつながって一つということに深く気づいていると、孤独に悩まされようはないのです。

 そもそも純粋な孤独などというものは、この一つの宇宙にはありえないからです。

 たとえ現象的には人から離れて一人でいても、本質的にはすべての人やものといつもつながっているというのが深い事実なのです。

 かたちの上では別離があるとしても、深い底のところ、全体としては宇宙が分離してしまうということはありえません。

 すべてのものがおなじ宇宙の部分としていつも一緒にいるのです。

 心の底からそう思えれば、人を深く愛しても別れを怖れたり、過剰に悲しんだりすることはありません(適度に悲しむことはもちろんあるのですが)。

 同じ宇宙の一部でありながら、それぞれのかたちに分かれているからこそ出会えるということを、許された無常の時間の範囲で爽やかに喜び楽しむだけです。

 人と対立し、不利益をこうむっても、過剰に憎んだり、傷つけよう、殺そうと思ったりすることもありません(妥当な正義感はしっかりとあるのですが)。

 もともと一つであり、そしてダイナミックに変化していく宇宙の中では、あわてて殺さなくても、かたちの上ではすべての人が必ず死んでいくことを知っていますから、過剰に恨むことはないのです。

 もちろん、せっかくそれぞれ宇宙の一部でありながら愚かさのために無駄な対立をしてしまっていることを非常に残念に思う気持ちはあるのですが。

 ……妙観察智の具体的な現われはきわめて多様ですから、とても一度のブログ記事に書きつくすことはできません。

 ただ、人生・この世のあらゆることについて、それまでとはまったく違ったすばらしいものの見方ができるようになる(らしい)ということだけ、ここでは学んでいただければ十分でしょう。


 私も、かなり長くそれなりに修行を続けてきたおかげで、時には妙観察智の働きの片鱗を体験することがあります。

 それは片鱗を体験しただけでも、いわば世界がきらきらと輝いているように見えてきますから、体験が完璧になったら、自分と世界はどんなに輝かしく美しいものに見えてくるのでしょう。

 八識から四智への変容が進んでいくことをとても楽しみにして、努力を続けているところです。

 よかったら、みなさんも一緒にやってみませんか。



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コメント (5)
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