究極の覚りまでの5段階2:入口から最終目的地まで

2006年05月19日 | 心の教育

 人から「あそこはすばらしいよ。ぜひ行ってみるといいよ」といわれて、旅に出たくなることがあります。

 でも、いろいろあって結局は行かずじまいということもよくあります。

 しかし、「やっぱり行こう!」と決心して準備を始め、そして実際に出かけると、一定の時間は当然かかりますが、やがて目的地の入口に到達します。

 この話をするといつも思い出すのは、中国のかなり奥のほうにある五台山という仏教の聖地に行った時のことです。

 夕方家を出て成田まで行き、かなり待ってから、夜間飛行で上海に向かいました。

 うつらうつらと寝たり起きたりして、「なんだかやっぱり遠いなあ」と思いながら夜を過ごし、やがて空が明るんできて、早朝の上海空港に着陸した時は、「そうか、大陸に来たんだ」と思いました。

 しかし、それからが長かった。ほんとうに長かった。

 中国大陸というのは本当に広いですね。ある意味、うんざりすることもあるくらいの広さでした。

 途中、他の仏教遺跡をいろいろ見たせいもあるのですが、最終目的地までは本当に遠かったです。

 でも、旅というのは――目的地に行って用事だけ済んだらトンボ還りというビジネスの旅は別にして――途中も楽しい、どころか場合によっては途中こそ楽しいものです。

 もっとも記憶に残っているのが、大同からマイクロバスで五台山まで走った最終コースです。

 これがまた恐ろしく長い道でした。

 大同市内を出ると、そこは高速道路という名前の舗装もあまりしっかりしていないガタガタ道で、バスは埃を巻き上げながらひた走りました。

 うれしかったのは、道路の両側が美しいポプラ並木だったことです。

 ポプラは私のもっとも好きな樹木の一つで、その並木の新緑の葉が日の光に映え風に揺すられてキラキラ輝いているのを見ると、もううっとりとしてしまいます。

 ところが、もう旅に出てかなりになっていて、疲れもそうとう溜まってきていましたので、眠いのです。

 「この美しい景色を見逃してなるものか」と思うのですが、もうたまらず目がふさがってきます。

 少し居眠りして、ふと気づいて、「もったいない。がんばらなくっちゃ」と目を引っ張るのですが、睡魔には勝てません。

 しかし悔しいので、また目を覚まそうとします。

 ……ということを何度か繰り返しているうちに気づいたのは、このポプラ並木は果てしなく続いていて、1時間や2時間では終わりそうもないらしいということです。

 そこで安心して一眠りして起きてみると、案の定、まだ並木は続いていました。

 朝から午後のかなり遅い時間、夕方近くまでそうとうなスピードで走っていたと記憶していますから、どんなに少なめに見ても時速80キロ×6時間以上、500キロは続く並木道でした。

 出た時はたっぷりと繁った青葉、遥か向こうにようやく五台山が見えてきた時は、ようやく芽生えてきた新緑の葉、「気候もこんなに違うんだ」と思いました。

 ともかく、こんなに美しいポプラ並木を朝から夕方まで見ているという体験は、生まれてこの方初めて、一度切りでした。

 一種の「至高体験」でした。

 そして夕方、かなり肌寒い五台山の麓の宿に着いた時には、「そうかここが五台山なんだ」という感慨がひとしおでした。

 でも、五台山に登るのは翌日です。

 ……あ、私の思い出話をしているようですが、これは譬えです。

 我が家から成田、そして上海、それから途中いろいろあって、大同から五台山の麓までは、覚りの旅でいうと、「加行位(けぎょうい)」から「通達位(つうだつい)」、そして「修習位(しゅじゅうい)」に当たります。

 長いフライトの後で、上海空港に着いたということは、まちがいなく中国に来たということですが、目的地の入口です。

 入口ですが、中国にはまちがいありません。

 しかし、それから目的地までの旅がこれまた長いのです。

 長いということだけ考えるとうんざりしそうですが、ところが途中も美しい、楽しいものです。

 途中だけだったとしても、「やっぱり旅に来てよかった」という感じです。

 そして目的地の麓に来るとほっとするというか何というか、「来たぞうー!」という感じですね。

 でも、また翌日、これまでよりももっと険しいデコボコ道、ちょっと運転を誤ると谷底に落ちそうな道を猛スピードで走らないと、山中にある仏教寺院には着かないのです。

 ひやひやしながら、お尻が痛くなりながら、それでもやっと着いたお寺は、とても風格のあるお寺で、金色に輝く立派な仏さま――ちょっとわび・さび好みの日本人にはピカピカすぎて違和感がありますが――がおられました。

 そういう仏の境地、究極の段階を「究竟位(くきょうい)」といいます。

 つまり、八識が完全に四智へと変容した、すばらしい境地です。

 このように、覚りたいと思ってから究極の覚りに到るまで、「資糧位」、「加行位」、「通達位」、「修習位」とステップを踏んで、最終段階「究竟位」に到るというのが、唯識の「五位説」の大まかな話です。

 大変と思えば大変、人間にはこんなにもすばらしい成長可能性があると思えばすばらしい話ですね。

 で、どちらと思うかは、あなたの選択です。



↓というわけで、すばらしい話だと思われたら、是非、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする