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纏向型前方後円墳と古墳時代の始まり

2011年11月23日 12時46分34秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
先週「古代を偲ぶ会」の例会で寺沢薫氏の「「纏向型前方後円墳」再論」というテーマでの講演会があった。
講師の寺沢薫氏は、出現期の古墳研究(前方後円墳の始まり)の第一人者として有名である。

講演会のテーマと大きく関連する、纏向遺跡は、以前から邪馬台国時代の遺跡、遺構、遺物の発見が続き考古学では非常に注目されていた。
ここ数年遺跡から、整然と配置された宮殿クラスの建物遺構が次々と発掘され、邪馬台国女王卑弥呼の宮殿ではないかと、大きくマスコミをにぎわしている。
現在も発掘が断続的に継続されていることもあり、今後とも、考古学ファンのみならず、国民の注目を浴び続けることになるだろう。

(以下講演会での話の内容になりますが、これは私が講演会を聞いた話の記憶をもとに再構成しているもので、寺沢氏の話を再現している物ではありません。また私の記憶違い等の誤りも考えられます。そのため引用等の利用は固くお断りします。正確な内容は、寺沢氏の著書を参照してください。)

講演会は、テーマの「纏向型前方後円墳」とは何かという話から始まった。
古墳時代には前方後円墳を頂点として、前方後方墳や円墳や方墳等多くの古墳が築かれた。
古墳の形や大きさは、階級を表している可能性が強いとされている。
古墳の頂点に立つ前方後円墳は突然広がりだした。
初期の前方後円墳の始まりは?箸墓といわれているが、専門家からいろいろ意見が出ている。
(参考:箸墓は纏向遺跡のそばにある。http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai05.html)

最古の前方後円墳の前によく似た形の「纏向型前方後円墳」が存在した。
纏向型前方後円墳も前方後円墳同様に様々な墳丘に分類できる。
従来の箸墓から始まる前方後円墳は、纏向型前方後円墳が定型化したものと捉える。

寺沢氏が古い古墳を調査したところ次のことが判明した。
初期纏向型前方後円墳の年代は、庄内3から布留0式である。(土器の形や製造方法による編年上の分類で、庄内式土器の後に布留式時が発生する。後ろのナンバーは小さいほど古い)
しかも、南九州から東北南部まで分布している。

前方後方墳が前方後円墳より先に発生したという学説も存在する。
この詳細を調査したところ、すべての前方後方墳は纏向型前方後円墳より古いものはない。(時期は庄内3まで)
従って前方後円墳が前方後方墳から派生したということはいえない。

弥生時代が終わり前方後円墳が発生して古墳時代となるのが定説であったが、纏向型前方後円墳の位置づけをどうするのか。即ち古墳時代の幕開けの捉え方。
纏向型前方後円墳の分布に特徴がある。大和・筑紫・吉備・関東に固まっていて、前方後円墳発生後も存続する。前方後方墳も前方後円墳発生後も存続する。
出雲には四隅突出型墳丘墓のみである。又出雲や中部内陸には、纏向型前方後円墳が存在しないが、中部には前方後方墳が存在。その意味で「魏志倭人伝」で邪馬台国と対立関係にあったと書かれている「狗奴国」の意味も注目される。
このような古墳の分布のあり方と時代別の変化を見ると、墳形も含め、連合王権としての王統(後の大和の豪族?)と地域政権の絡みや地域祭儀の集約といった関係も解明できるのではないか。

以上のような講演会の説明を聞いて、これから箸墓以前の弥生時代から古墳時代への移行期の政治状況に関し、考古学的アプローチが進むのではないかと期待される。
(弥生時代末には、銅鐸や銅剣、銅矛等が一斉に埋納されている。等様々な謎かある。)



参考
【全国遺跡報告総覧とは】
藤原京右京九条二・三坊 瀬田遺跡の調査(飛鳥藤原第187次調査)(ダウンロードをクリックすると現地説明会資料<左下のタグをクリックすると表示される>が表示されます。日本最古クラスの円形周溝墓です。)

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2 コメント

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Unknown (おっさん)
2018-04-24 20:38:32
>寺沢氏が古い古墳を調査したところ次のことが
>判明した。
> 初期纏向型前方後円墳の年代は、
>庄内3から布留0式である

寺沢氏が意図的に新しくしているので鵜呑みにしてはいけません。

纏向遺跡の主任である橋本氏は最古の古墳である「纏向石塚古墳」の調査結果を、この述べている。

「大和纏向遺跡」学生社2011年

「墳丘内部からの出土土器には完成形はなく、専らは破片資料ばかりであるが、その総数は実に3600点にのぼる。」243p

「あれだけたくさん掘って、墳丘のなかで庄内・布留甕が引っかからないというんは僕には驚きです。

どこを掘っても庄内・布留甕が出ますのでね。そうなってくるとやはり石塚は古いかなと思う。」425p

この後、寺沢氏が強引に庄内式の新しい時期にもっていくのですが、読んでいて不愉快でした。


ですから初期纏向型前方後円墳の年代は、庄内3から布留0式ではなく庄内・布留以前としたほうが正しいでしょう。




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投稿ありがとうございました (散歩者goo)
2018-04-28 18:48:38
コメントがないのでコメントされたのを見過ごしていました。
返事がおくれてごめんなさい。
コメント大変参考になりました。
その後、円形周溝墓が注目され研究もずいぶん進展していると思います。
奈文研の全国遺跡報告書一覧から直接最新データダウンロードして、それを基に前方後円墳成立直前の考古学的な世界を考えるのも楽しいと思います。
念のため、奈文研の【全国遺跡報告総覧とは】のリンクをこのブログの末尾につけておきました。
コメントをいただいたおかげで、自選ブログ集に元々あった歴史・考古学・民族学のリンク集が天気漏れになっていることに気付き、今日自選ブログ集にこの項目を追加しました。
ありがとうございました。
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