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老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

人間の行動学(北山君遺稿) 失敗編 その③ ~2回目の詐欺に会う~

2019年07月14日 19時58分12秒 | 北山君 遺稿集(人間の行動学)
 個人ではどうしようもない戦争の影響を受けながらも、気を取り直して社業の確立に勤しんでいる時に、またもや詐欺に会うのです。
 まさに、弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったり、或いは一難去ってまた一難とも言えますが、それにも挫けず起き上がり小法師(おきあがりこぼし)のように逞しく前向きの姿勢を崩されなかった北山君です。(まさ)


 水産物(冷凍鯛&イカ)の買い付けを開始し、それらを買った漁業会社向けに航海計器(レーダーや魚群探知機など)の販売をするために、南400Kmの避暑地と漁港のあるマル デル プラタ市まで深夜バスを利用して往復を繰り返しておりました。

 深夜12時過ぎに出発、早朝6時過ぎに着いて、会社訪問、その日の真夜中12時過ぎのバスで引き返して・・・早朝に戻ってオフィスに直行、商談の結果を原稿にして、テレックス送信のために電信公社へ・・・。
往復のバスの座席の隣に女性に座って貰ったら、疲れはゼロ!
(これ、失敗編とは無関係ですけん、先走りして解釈せんように頼みます)。

 1979年、水産物商社;北商(1981年、カズノコ倒産)、四大商社の一社、当国の漁業会社(漁船二隻を利用)、そして北商代理店のトーシンの4社で、イカ漁獲(当時は、漁網)、船内冷凍&日本向け販売プロジェクトを実施したことは、僅かですが躍進を実感することになりました。(トーシンは未だ、「社」といえるような組織じゃ無かったんですが)

 トーシン社の役目は、イカ船2隻に2名づつを乗船させ、検品と作業の進捗を報告することでした。
勿論、下名が、ブエノス アイレスのオフィスで、乗船しとるもんと電話交信して進捗状況を聞いてそれを纏めて連絡をする役目でした、水産物のことはド素人、食べることしか知らん訳ですけん。

 このイカ漁船にも、航海計器を販売済みでした。某日の電話交信で、航海計器以外に何か、商売になるようなもんは有りゃ~へんか?と聞いたら、売った魚群探知機の一つに、魚網につける機器に日本のアルカリ乾電池;NOVELブランドがあると・・・一回の投網作業だけで12個を使うとると。一日に何回かの間に、相当の個数を使っておるので消費量は相当じゃと・・・
この計器にゃ、このブランドのアルカリ乾電池じゃないとダメ!を理由にしたら売れる!が脳裏にひらめきました。

 直ぐにそのメーカーを調べたら、富士通グループの富士電気化学工業(株)社。
そこに手紙を書きましたよ、アルカリ乾電池の輸入をしたいと。幸運にも、それを受諾してもらって、最初のオーダーは、1384ドル分の魚群探知機用の単一乾電池だけ。販売先は、漁船を持って魚群探知機を売った漁業会社、しかも漁船の船長に売り込みを掛けるんです。このNOVEL乾電池を使わんと器機に支障が・・・~「出る」とまでは一言も言わんかったです~、充電できる乾電池でも使えたんですけん。二回、三回と輸入して四回目からは、単二、単三乾電池も加えて、写真屋などにも少しづつ販路を開拓しました。

 国内にアルカリ乾電池の競合会社は、三社ほどありましたが、日本製が一番!を自信を持って売り込みしておりましたよ。販売先の中にゃ、ヨケイなことをするんもおって、競合会社のと持続時間を調べる写真屋まで・・・

 残念なことに、競合会社のほうが持続時間が長かったと。それは何かの間違い!で押し通すことになるんも当然です。

 乾電池販売先も増えて、メーカーからは翌年の生産計画のために、輸入量の概算を求められるまでに取引量も増えていました。1980年末に日本に行った折には、浜松近辺の工場を見学しに連れていってもらい、大歓迎されたことを忘れません。

 輸入額を増やすことで、通関費用(時に関税)が増加するんは世の習い、銀行から借金はできんので、その資金は友人のア国・国税庁の徴税検査官に「金が足りんから何とかしえくれよ」で、借して貰っては、商品を売って入金したら払うとりました。

 

 そういう一日、販売先の紹介で、と2人連れの男たちが、オフィスに尋ねてきて、南のパタゴニア地方で乾電池を販売しておるので、富士・NOVELの乾電池販売を申し込んできました。会社の概要などを持参してくれんと取引きするんは無理!と断わりました恰好つけて。ホンマは即、売りたい一心、買い手の懐具合などは、調べることはしとらんかったんですから。

 一週間後に再度、オフィスに来まして、そのパタゴニア地方の新聞に広告を掲載したんを持参してきました。この広告で注文がよ~け入っておる!と・・・
商品を買う前に宣伝する!こりゃ~大したもんじゃ、素晴らしい販売会社に決っておる!と思い込むんは当然で直ぐに、その場で商談し、2万ドルほどの販売が確定です。
乾電池販売の卸問屋でも、千ドルていど単位でしか買ってくれんかった頃にです。

 当時の販売習慣は、30日&60日先付け小切手と引き換えに商品を渡す方法でした。翌週、彼等が手配したトラックで倉庫まで引き取りに来て、2枚の小切手を受け取り、商品を渡しました。『やった~、大商談』と大喜びしたんも当然です。

 受け取った小切手の振り出し先が、パタゴニア地方在の銀行でなく、マル デル プラタ在の国立銀行支店だったので、オフィスに戻ってじっくり見た時に何故?の不思議な疑心的な感覚になりましたが・・・売上げ伝票の住所は、当国の最南端の街だったもんで、どうして違うんじゃろうと、まあ、買う前に宣伝・広告したんじゃから、悪い連中じゃない、が、不思議な疑心に思う気持ちを押さえ込みましたね・・・

 一枚目の小切手の期日の数日前まで、その小切手を何回もとり出してそのサイン、国立銀行の支店にしたんはどうして・・・繰り返して見るんですが、どうも不安感がつのるので、友人の警察署長に電話して、経緯を伝えて相談しました。

 「キタ、お前が不安感を持っとるんなら、それは詐欺じゃよ必ず!もう一ヶ月くらい過ぎておるから、ブツは売り飛ばしておるじゃろう。その国立銀行本店に、警視庁の銀行関係の詐欺専門の担当者が居るから、伝えておくから電話して会いに行けよ」で翌日、小切手をもって出向きました。

 小切手を見て即、「これは盗難小切手じゃな多分」で、マル デル プラタ支店に電話して確認してくれました。刑事さん、驚く身振りまったく無し、落ち着いていました。
「残念じゃろうが、これは盗まれた小切手じゃよ。もう手立ては無いじゃろう。兎に角、この小切手を銀行に持っていって、預け入れなさいよ。不渡りの証明がされて戻ってくるから、それで詐欺行為ちゅうことになるから・・・それが手に入ってから、どうするか対処する以外に無いね~。もうブツは無いじゃろうし、コンタクトもせんじゃろう・・・」

 「ただ一つだけ、可能性があるのは、3日後になっておる小切手の期日に、電話か何かの方法で荷物の買いを連絡してくるかも・・・その時にゃ直ぐに電話をここにしてくれよ、そしてオフィスに来るようにさせて留めておくように。15分以内に行くから、まあ1%くらいの確立じゃけど・・・」

 取引先銀行に、期日3日前の(30日払い分)と60日期限の小切手の両方、預け入れしましたら、2枚とも『盗難された小切手』という証明がウラ面にされて戻りました。

 もう二人に騙された!というよりか、広告に騙された!の気持ちだけ、頭の中は真っ白、物事を悟った気持ちじゃないのは当然です。刑事さんに小切手が戻ったことを電話したんですが、「そうか」と二人組みから何か連絡は無いか?」『無いですね~』の会話。

 その会話の1時間後、2人組みが電話してきました。刑事さんが予想した1%だけの確立が当たった訳です。
『マル デル プラタで注文が多く入っておるので、今日中に準備して欲しい』とその一人。
慌てず、驚かず「今日、小切手を銀行に預金するから、前回同様に小切手をまず、オフィスに持って来れんと荷物は渡せない」
『今から、20分くらいでオフィスに小切手を持って行くから、夕方の荷物引き取りを準備してくれんか?』
「小切手を持ってきてくれたら、夕方にゃ準備できるが・・・」
『直ぐにゆくから、待って貰いたい』の会話が終わって即座に、国立銀行の刑事さんに「今、電話が入って20分くらいで、オフィスに来ると言うた」を通知しましたよ。
慌てた声で、「私等がゆくまで、話を引き伸ばしてオフィスに止めておくように」となりました。

 15分も経たない内に、オフィスに来たのは2人組みでなく、販売担当と自己紹介する男だったんで、内心慌てたんですが、マル デル プラタで売れておることなどを話題に小切手を受け取った時、ドアのブザーがなって私服の刑事さん2人が来ました。
『2人のうちの1人かな?』
「いや、2人は来ていないが、販売しとると言うておるから、3人目と思う」
刑事さんたち、その第3の男に警察手帳を見せて同時に、ピストルを取り出して男の横面両方にくっつけて「2人組みはどこに居る?お前は今、ここに泥棒に入っとるんとどっちを選ぶかな? どこに居るんか言わんと泥棒に入ったことじゃから撃ち殺すが」と落ち着いた、諭すような声で・・・

 ブルブル身体を震わしておる第3の男、『ここから、200mほどのカフェテリアで待っています』と声も途切れとぎれに・・・
「逃げようとしたら、撃つ!」と2人で男を挟んで、その両脇にピストルが見えないようにしてカフェテリアまで・・・、2人組は第3の男ともう2人が戻ってきたので、顔面蒼白、お縄ちょうだいとなりました。勿論、ブツは取り返すことはできませんでした。

 結論;広告・宣伝ちゅうのは、全面的に信用せんことが大事ですけん、忘れんでください。
米国本社の日本の出先の何とかファウンド会社が、有名雑誌に広告・宣伝して何百億円を集めたけど・・・ちゅうこともありましたね~。
広告の威力ちゅうのは・・・広告会社の人たちを決して、批判するもんじゃ ありません。広告記事を信用して騙されるほうが、悪いんですけん。

人間の行動学(北山君遺稿) 失敗編 その② ~戦争には勝てません~ 

2019年07月13日 19時52分01秒 | 北山君 遺稿集(人間の行動学)
 今回は、詐欺被害ではないのですが、やっと仕事が軌道に乗りかけた頃に、かって英国との間に起こったマルビーナス戦争の影響を受けたお話しです。
本当に波乱万丈の経験と言えるでしょう。(まさ)


 1978年は変化の多い年となり、この年あたりから漸く仕事らしいことを探し当てられた感覚になりました。前述の闇ドル世界とは、完全に縁切りしたし、会社と個人の運命の流れに変化の兆しがみえてきた年だったようです。軍政下ではあったけど、戒厳令は布かれず極左翼によるテロ活動に対して、陸・海・空三軍による掃討作戦が進行していたこと(両者の虐殺行為)など、知る由も無い日々でした。

 アルゼンチンに来て以来、親交を持った海軍将校の紹介で、中南米では当時、最高の海軍軍人、将校育成をする海軍兵学校に航海計測器を販売できるようになったのは、この年でした。

 日本の水産物輸入販売専門商社と代理店契約をして、鯛、イカなどの輸出仲介、検品業務も開始することになった年でもありました。同時に、漁船向け航海計器メーカーの販売代理店になり、漁業会社にレーダー、魚群探知機などの販売を開始しました。

 「キタヤマさん、高島屋はですね~、日本のトップを争う天下の百貨店なんですよ、そこに来て公定ドル・レートと闇ドル・レートを利用して輸入して欲しいとは、どうも・・・しかし、面白そうですね~・・・」と、飛び込みで売り込みをかけたア国産皮革製品の輸出が、大阪の同百貨店に納入する会社経由で実現していた年でした。

 同年7月のサッカー・W杯アルゼンチン大会の際は、それを観戦に来られたJFAの理事、当時の代表監督、元代表選手だった日本サッカー界の多くの方々に知遇を得ることもできました。
個人的にも現在に至る長い人生に、お付き合いしていただくことになる心友、友人&恩師と敬意を捧げることになっている大勢の方々と知り合うことが、できた年でもありました。

 海軍兵学校は、ブエノス アイレスから南に向かって60KmのBUE州州都ラプラタ市の沖合いの島にあり、計測器の売り込みには一日がかりで行っておりました。早朝にバスで市内の鉄道駅まで行って、そこから電車でラプラタ駅、そこからバスに乗り換えて島に渡る港まで、そこで一時間に一回の渡し舟に乗って兵学校。商談はせいぜい30分なんですが、そこに到着するまでに軽く4時間を要していました。これに復路の4時間でその日一日がかりで疲れきって終わり。翌日、オフィスでテレックスの原稿を電信公社に持ち込んで、メーカーに発注作業をすることの繰り返しでした。
(テレックス:もう死語になっとるからご存知無い方もおられるかも?広辞苑には載っています。)


 1979,80,81年にも、いろいろな出来事がよ~け有りましたが、これらを飛び越して・・・
1982年3月25日、忘れもしません。この日の朝早く、海軍兵学校の計測器購買担当の将校と教官から「直ぐに学校まで来るように!」と電話がありました。車を持っていない時代ですから「直ぐ」は、4時間を要する訳でバス、汽車、バスそして舟を乗り継いで兵学校まで行きました。その車中、思い巡らすのは 何のことじゃろう、どうしてもその日に直ぐ来るようには?
売った計測器に何か不具合が発生したのか?売り込んでおった兵学校向け航海シュミレーターのこと?
当時、中南米では最高の海軍兵学校だったんですが、航海シュミレーターが無かったので、漁船向け航海計器メーカーとは別の会社に販売の許可を得に日本まで出向いて受諾してもらって売り込みをかけておったんです。

 小さな航海器機を海軍所有の全艦船に買うてくれるんじゃろうか?
不安感と期待感の両方の思いが交叉するバス、電車、渡し舟・・・途中の景色などは、眼中に入らないままでした。

 感激、感動と云うことが、商いに存在することを深く認識できるのは、商談成立に時!を常に感じてきました。購買担当将官と計測器の購入をバックアップしてくれた教官から、「キタ、シュミレーターを買うことになったぞ!」と伝えられた時、その感激と感動は最高潮になったことを今でも忘れません。(当時のア国海軍の艦船の航海計器は殆どが、英国と米国のメーカーでした)

 日本には、軍用機械の輸出は何とか三原則で禁止になっておることなど、知る由もないし、教育向けであることでF社は生産と輸出することを引き受けてくれていました。「やったあ~」の感動が続いたのは、1982年4月2日まで・・・。

 英国とのマルビーナス諸島の戦争で、「何ちゅうこと・・・」に急転してこの商談は、終止符をうつことになりました。海軍兵学校調達部署の将校&教官とは後々まで親交を継続できたんですが・・・イギリスと戦争して「二番」になってしまい、その予算がパ~になったんです。

人間の行動学(北山君遺稿) 失敗編 その① ~第一回目の詐欺~

2019年07月12日 20時13分49秒 | 北山君 遺稿集(人間の行動学)
 6月20日のこのブログで触れました、先日亡くなったアルゼンチンの親友北山朝徳(きたやま とものり)君(元、TOSHI代表で、JFAの国際委員)は、まだお元気だった頃に『人間の行動学』とのタイトルで自分の失敗経験談や、Chistesと言うアルゼンチンの男性が楽しむ小噺というかジョークの様なものを定期的に送ってくれていました。

 本当は物哀しい話が、彼の広島弁の文章になると、余計に臨場感が感じられると共に、滑稽さと哀しみが増し、更に彼のおおらかな人間性が溢れる内容で、いつも楽しみにしていました。

 私がこのブログを始めた時に、何時かこのブログで紹介したい旨を申し出た所、快諾してくれましたが、まさかそれが実現するまでに彼が無くなってしまうとは…

 我が家のベランダのハカランダ(ジャカランダのスペイン語読み)も彼を偲ぶように最後の花を散らせましたので、今後機会を見ながら少しずつ紹介したいと思います。
(判り易いようにタイトル名を付けたり、段落やテニオハなどは一部手直ししましたが、原文は殆ど弄っていませんので、北山君の遺稿として紹介します)


 先ずは、彼が出会った最初の詐欺事件の様子です。
毎日(日によっては1日の間に2~3度も…)物価表示が変わるようなハイパーインフレに見舞われていた激動期のアルゼンチンの様子や、その中で何とか自力で生き抜こうとする逞しい若人の様子が良く判ります。
尚、文中の(※)の欄は私の注釈です(まさ)

<闇ドル交換屋の意識が抜け切れていなかったんが、間違いの基>

 トーシンを立ち上げることになったんは、1976年3月24日に発生した軍事革命が切っ掛けになりました。1973年に亡命先から帰国したペロンが、大統領になったけど年齢もあって死去、これを引き継いだペロン党のオナゴ大統領一派が、国の経済を混乱、混濁に陥れておったのと、極左翼のテロ活動が活発になったことが、三軍の革命の引き金になった訳です。この軍事革命は、何かの変化を感じさせてくれたんですが、当時の細かい状況は、省略です。

 1975年の1月から無職、失業者になっていて、思いついた仕事は当時、ペソ貨対ドルレートに公定と並行(即ち、闇)レートの差があることを利用して、そのサヤを稼ぐ『ヤミ・ドル交換屋』でした。
邦字新聞二紙に「カンビオ(※ Cambio=両替)承ります XXX-AAAA」とだけ広告し、アパートの電話一本で商売開始でした。

 猛烈なインフレで、午前と午後に商店の値段があがるとともに、ドル・レートも連動してペソ安一方。夕方には、ペソ貨を全てドルにして明日を待つ・・・ドル紙幣を売ってペソ紙幣を必要とする人、ドルを買って貯めてゆく人が、バランスよくおりましたね~、数少ない日本人社会だったんですけど。

 その年、二回も日本往復したんは、インフレとその闇ドル交換屋商売があったからですが、職業欄にゃ、「闇ドル交換屋」は無いので、失業者だったことに変わりなかったんです。
日本に戻った時、大学の同輩から「失業者でありながら、二回も日本に来るんじゃから、何か悪ドイことをやっとるはず!」といわれたことを忘れません。需要側と供給側の二ヵ所に通って、喜んでいただくまっとうなビジネスじゃと思うとったんですが・・・

 今はもう、名前が変わった商社の方に利用していただいて通う内、応接間に通してもらい「カフェ」をご馳走になりながら「お前はの~、未だ若いんじゃから、闇という言葉の職業は早く止めてマトモな仕事をするべきぞ。闇の付く商売やっとるもんに、商社の仕事を委託する訳にゃゆかんのが、日本の会社なんじゃよ、」と、いつも諭されておったことも忘れません。

 そうこうして一年数ヶ月後の1976年3月24日に、軍事革命が起こって軍政になったんですが、この革命に何かの変化を感じて、会社を立ち上げることになりました。友人の中に弁護士、会計士がおりまして会社の設立を相談、同時に友人からアパートを借りて、そこをオフィスにして仕事を探すことから開始、闇ドル交換屋を廃業、失業者から経営者に転進しました。トーシン株式会社を立ち上げたものの、仕事を探すことが毎日の業務・・・

 在ア日本商工会議所に通って、日本の会社住所録を調べて日々、そこにせっせと会社紹介の手紙を郵送することが業務でした。その反応と前述の商社の恩人からいただいた業務委託のことなどは省略。

 会社登記が終って2ヶ月くらい経った時、オフィスに元空手の生徒が訪ねてきて「南米の某国の大使館の人が、ドル札をペソ貨に交換したいので、協力してやってくれんですか? サヤは相当取ってもエエ~くらい、急いでおるのですが・・・」と。
闇ドル交換屋は廃業してまっとうな仕事をする会社組織にしたものの・・・

 一緒に会社を立ち上げた人、「どうする、これを最後にして少し儲けるんは?会社ちゅうても全く金の入る見込みはありゃ~へんし・・・」
結局、受けましたね、ドル小切手の換金を。10.000ドルと15.000ドルの小切手二枚を、旧知のドル換金屋に頼んでペソ貨を受けとって、その元生徒に・・・

 一ヶ月後に、換金屋から「口座は、閉まっておったドル小切手だったよ」と。そうです、その小切手は、盗まれた小切手で、口座は閉められておったんです。目の前が真っ暗になったんは当然です・・・
2.000ドルのサヤどころか、25.000ドルをドル換金屋に返済せにゃならんハメになりました。
闇ドル交換業で貯めといた金で、半年から一年くらいは、仕事無しでも会社を続けられると思っていたけど、これでパ~となりました。

 そしてトーシンの最初のビジネスは、口座の無いドル札を掴まされた詐欺に遭遇で損失;25.000ドルから開始となりました。

結論;他人のドル小切手、特に知らない人の換金にゃ、関知せんことです。世の中には、ニセ物(詐欺を目的)が、罷り通っておることを忘れちゃ~ならんですわい。