goo blog サービス終了のお知らせ 

老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

歯の治療開始

2025年01月23日 20時14分50秒 | その他
 年初に何とメザシでブリッジの上部の前歯を痛めたことは記載しましたが、2週間以上経過した今日からその歯の治療開始。

 その間、応急処置で対応してもらっていた前歯に負担が掛からないように、私の大好きな肉類など少しでも固くて歯に負担がありそうなものは避けて、煮物などの軟らかいものをメインにして奥歯で噛むようにしていましたが、2日ほど前からついに応急措置の効き目が無くなり前歯がグラグラ状態になっていたので、予約日の今日を待ちかねての通院でした。

 シッカリした前の上歯が少ないらしく、先生も助手と相談しながら四苦八苦の様子。
歯根が傷んでしまっている歯は抜歯するしか方法がないようですが、総入れ歯ではなくて何とかブリッジ方式での治療となる様です。

 方針が決まってからも、歯型を採ったり、現在私が治療を受けている高血圧・不整脈・肺炎・中耳炎に関する状況や服用している薬などを調べて貰ったり、中々大変でした。

 いよいよ2月12日から抜歯作業から開始になるようですが、結構時間が掛かりそうな治療の様です。

 食べられなければ健康維持も出来ませんので、ここは真剣に歯の治療を最優先します。

 歯は健康維持の入口という事はある程度は承知しているのですが、私的には歯が最優先ではなく、心的な安定も含めて全ての体の部分の健康も同じように考えねばと思っています。

 私のスポーツクラブの仲間で、私より3歳ほど年上ですが、80歳を過ぎてもゴルフやスキーを楽しんでおられた方と親しくしていました。その人のご自慢は「歯はまだ全て自分のもので、入れ歯もなし。今年初めて虫歯の治療をした」とよく言われていましたが、3年ほど前に急に姿を見なくなり、暫くして<どうも、内臓の調子が悪いようで、自力で動けなくなって介護施設に入られた様だ・・・>との噂を耳にしました。

 このような例もありますし、『一病息災』という言葉もありますので、健康だと思う時ほど出来るだけ医者と仲良くして色々なチェックを受け、軽い段階で治療を受けることが大事かと思っていますが、なかなか思い通りに行かないのが常なので・・・   (まさ)

<昨夜の夕食> スーパーで見かけた新物ワカメが主役でした。

買ってきた生ワカメ 歯に負担が掛からないように洗ってから、カット
 今日の湯豆腐は、野菜の変わりにワカメ。入れると直ぐに鮮やかな色に変わるのも食欲を刺激します
湯豆腐/煮込み/ブリ切身の南蛮

煮込み 白菜/うすあげ/人参/シメジ/豚肉

ブリ切身の南蛮(生協 購入品)



神戸淡路大震災から30年に思う その2

2025年01月17日 19時18分00秒 | その他
 今日は朝からTVは阪神淡路大震災特集一色ですが、私のブログも昨日の続きです。

(2) 翌日
・(神戸の妹宅は亡くなった親父の家の跡地に立て直した家で、隣には2軒続けて親戚があり、何れの家の子供も兄弟のように育っていたので、従兄弟同士でも何かと連絡を取っていました。)その中の大阪に住む従弟と連絡が付き、午後から一緒に神戸に行こうということになりました。

・昼過ぎに、迎えに来てくれた従弟二人と落ち合い、ありあわせの食料品や水や水を入れる容器などを積み込んで出発。(この頃には、大阪でもスーパーの食料品や水などは在庫がなくなっていました)

 昨夜の経験を踏まえ、幹線道路は避け、少し回り道ながら、通れそうな道を選び、神戸の灘区に向いました。
途中、あちこちで崩壊した家などを見て心配が増しましたが、信号もなく家の明かりもない真っ暗な道を慎重に進み、何とか夜には灘区の妹宅に到着。幸いにも妹宅や隣も親戚の家も無事でホッとしました。

・電気も水もない家に泊まるわけにもいかず、直ぐに帰宅でしたが、中国道が無事らしいと聞いて、神戸の灘区から六甲山を超え、有馬経由で中国道に出て、夜半過ぎに帰宅できました。

(3)  淡路のこと
 震源地が淡路と判り、淡路に住む義父母や義妹のことも気になっていましたが、住んでいる洲本市の方はあまり大きな被害がなさそうと判り、ツレアイも一安心でしたが、神戸市内の交通網がズタズタで淡路に行くのは暫く見合わせざるをえませんでした。
 暫く後で、神戸港から船で淡路に見舞いに行った記憶があります。又後述の通り、私はその後淡路とは大きな繫がりが出来ました。

(4)  仕事がらみ
・当時私は、名古屋に本社がある環境関係をメインとする小さな商社の大阪営業所に勤務していました。
偶々、この震災の少し前に神戸の兵庫区に本社があり、神戸市の西端に当たる西区に工場を建設中のある食品会社との間で水処理関係の商談が成立したばかりで、本社の打ち合わせや、工場とでの工事打ち合わせが忙しかった時です。

・しかし、大阪―神戸間の電車や道路は切断状態だったので、
本社に行くときは、当初は甲子園まで電車、そこで臨時のぎゅうぎゅう詰めのバスで神戸の三宮まで、そしてタクシー利用。工場へ行くときは中国道で三木経由という状態が半年余り続きました。
(半年ほどして、神戸の三宮まで電車で行けるようになり、少しは楽になりましたが・・・)

・また会社は環境器具の一環として、風呂の水を電力で循環させ一定の温度に保つという、今から思えばおもちゃの様なチャチな器具も扱っていたのですが、これば電気は何とか通じたが水道が復旧していない被害地に売れるということで、大手家電メーカーと提携して被災者相手に売り込んだこともありました。


(5) その他
・当時勤めていた会社に中国からの実習生が居て、日本に住む中国人の結束というか情報交換の速さには驚いたものですが、この地震の直後にその人が『内緒ですが、どうやら同程度規模の地震が2日以内にあるようですよ』といったので、「そんな根拠のない風評をばらまくものではない」と大声で叱ったこともありました。現在のSNSによるフェイクニュース伝播の先駆けみたいなことでした。

・幸いにも私だけでなく、私の身内や親戚関係には大きな被害はなかったのですが、当時の仕事仲間で家が崩壊した人も居ましたし、更に以前勤めていた会社の先輩が亡くなったり、同僚の親族が亡くなったりと、身近な所でも大きな被害を受けた方が沢山おられます。


・このような経験をし、私の人生観も大きく変わりましたが、これを機に物を単に左右に動かすだけの商社的な仕事ではなく、本当にコネも経験も何もない環境で、自分の体と知恵だけで何かに挑みたいと思う気持ちが強くなりました。
そして、ツレアイも快く同意してくれたので、「造園・園芸」という全く新しい世界に飛び込むという、思い切った決断に至りました。
その後、毎日早朝から地下足袋姿で造園・園芸に関わる基礎的な作業を習得したり、知識などを勉強し、色々な資格を取らせて頂きました。

・その後、芦屋市にある造園会社でも仕事をしましたが、芦屋市は地震の被害も甚大で、震災後の復旧に関わる公園整備作業などにも携わりました。
更に、西宮市仁川百合野町にある公園整備に関わる仕事もしましたが、ここに「地滑り資料館」というのがあり、阪神淡路大震災で大規模な地滑りが発生し大きな被害がでた跡地であることを知りました。
こんな訳で、知らず知らずのうちに、神戸淡路大震災からの復旧に関連する仕事に携わってもいました。

・これらの経験をもっと活かしたいと思っていた時に、この大地震前に兵庫県の淡路島に設立された県立の景観園芸学校のことを知り、ここで「園芸福祉」という分野のことを学ぶうちに、造園・園芸知識を生かしたボランティア活動などを通じて社会貢献できること事を知り、この道に進んだという次第です。


 このようなことを振り返ると、直接は被害のなかったものの、身近なところで起こった神戸淡路大震災は、その後の私の生き方を大きく変える契機になったというのは紛れもないでしょう。

 以上、長々と退屈な個人の想い出話に付き合って頂き、ありがとうございました。(まさ)



神戸淡路大震災から30年に思う その1

2025年01月16日 19時27分16秒 | その他
 明日は1月17日。ついこの間のことのように思いますが、もう30年も経つのですね。

 当時、私は大阪に住んでいて被害は無く、神戸に住んでいた身内や親族なども幸いにも無事だったのですが、神戸生まれ、神戸育ちの者として、決して忘れることのない出来事でした。

 この大震災に関しては、今までこのブログでも触れることはなかったのですが、やはり、身近で起こり、大きな被害があった大きな出来事に関しては、黙っておくよりは少しでも自分の経験を伝えておくことが必要かとも思い、今回は少し触れてみたいと思います。

 但し、全てをまとまった文章にすることなどできませんので、記憶に残っていることの断片を箇条書きにして見ます。

(1)当日のこと
・私が住んでいたのは現在の家と同じで、大阪市の都島区のマンションというか集合住宅でした。

・この地震が起きた1月17日は月曜日だと思いますが、私はその当時自宅でのビール造りに興味を持っていて、前日はテニス仲間と共に、我が家でその自家製のビールの試飲会をしましたが、自家製のビールはアルコール度数が強かったのか、早々に酔っ払って早くに就寝していました。

・朝方、突然の激しい揺れに飛び起きましたが、タンスの上の空箱が落ちた程度で済み、食器なども全く被害がなかったので、「何や、大したことなさそうや」と判断し、昨夜の酔いが残っている私はまたすぐにベッドに潜り込んだようです。
 我が家のある場所の地盤が良かったのか、或いは建物の向きが幸いしたのでしょう。

・暫くして、寝付かれずにTVを観ていたツレアイが、大声で「神戸が大変なことになってるで!!」とのことで、叩き起こされました。

・私も、食事もせずに、ビルや高速道路が崩壊し、あちこちで火災が発生している変わり果てた神戸の惨状を伝えるTVに見入っていました。
暫くして、というか昨夜の酒が抜けて正常な頭に戻ると、神戸にいる妹や親戚のことが気になり、電話を試みましたが、全く通じずにイライラするばかりでどうしようもありませんでした。

・その後、会社のことが気になり自宅を出ましたが、大阪の地下鉄も動いていないということで、新大阪駅の近くにある勤務先まで歩いて行きました。
事務所があるビルには何とか辿り着いたもののエレベーターは動いておらず、階段で5Fにある事務所に着くと、ロッカーが倒れているのかドアーを開けることが出来ません。
同僚が来て、何とか二人がかりでドアーを開けると、机があちこちに動いておいて、書類なども散乱していて、同じ大阪でも地域やビルによって被害の状況が大きく違うことに唖然としましたが、先ずは片付けから。

・直ぐに、名古屋にある本社から問い合わせの電話があったものの、会社の電話からは全く発信できない状態で、ましてやまだ携帯電話などない時代だったので仕事にもならず、遅れて到着した所長に引き継いで、早々に退社。

・当時、私は車を持っていなかったので、所長に断って会社の営業車を借りて帰宅すると、ツレアイはTVの前に張り付いたままで、まだ神戸にもツレアイの両親が居住している淡路にも電話もつながらないと不安な様子。

・TVで見ると、震源地は淡路らしく淡路のことも気になるのですが、神戸の様子が酷そうなので、取りあえず神戸に行ってみようということで会社の車で二人で出掛けたのですが、国道2号線で淀川を超えたあたりから車は全く動かなくなり、途中の公衆電話が空いていたので、そこから通話を試みました。
何度目かで、神戸の妹に連絡がつき、自宅も隣にある親戚の方も無事ということで一安心し、続いて淡路にも何とか連絡が付きました。
また、離婚した前妻にも連絡が付き、子供たちも無事なことを確認し、一旦帰宅することにしました。

 やはり、万一の場合は固定電話ではなく公衆電話が優先されるようです。
当時はあちこちで見かけた公衆電話が、ほとんど姿を消してしまった現在では、いざという場合にどうなるのか大いに不安です。(まさ)



「バカチョン・カメラ」のこと

2025年01月08日 19時20分38秒 | その他
 一昔前(「一昔」が10年なら、もっと前かな?)、「バカチョンカメラ」という言葉が流行りましたが、最近は殆ど耳にしなくなりました。
確かにカメラは進化し、私が現在主に利用しているコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)は、ズームなどの機能があるデジカメですが、「AUTO」バージョンでは基本的には昔の「バカチョン・カメラ」とほぼ同じで全自動で撮れます。

 <weblio>に拠ると、「バカチョン・カメラ」とは、“全自動カメラ、コンパクトカメラの俗称”とあり、これには適合すると思うのですが、最近は何故か「「バカチョン・カメラ」という言い方をしなくなってしまいました。

 その理由を知りたいと思っていると、<WIKIPEDIA>で下記のような記載を目にしました。
「バカチョンカメラ」の意味については諸説ある。
  • “バカでもチョンでも使えるカメラ”の略語という説。
  • “バカでも(シャッターを)チョンと押せば撮影出来るカメラ”の略語という説。
  • 「vacation camera」(バケーション カメラ)のローマ字読みという説。
 ①の説について、「ちょん」は江戸時代から「『半人前』や『取るに足らない人』のことを、芝居の終わりに打つ拍子木の音になぞらえた言葉として存在することから、「バカチョン」にも侮蔑的意図はないとする説がありますし、「バカチョン・カメラ」は従来、カメラと縁遠かった女性や子供を販売の対象としており、かつて高嶺の花であったカメラを安い値段でいつでもどこでも誰でも簡単に撮影できるものとした商品であった。こうした事情から、単に見下した侮蔑語ではなく、コンパクトカメラに対する親しみも込められていたと考えられます。

 しかし、「チョン」は朝鮮人に対する侮蔑的な言葉だとする説もあり、一部でも不快感を持つ人が居るような言葉は避けようという傾向が強くなり、「バカチョン・カメラ」という呼び方が避けられるようになった経緯があるということです。

  尚、私は現在の「バカチョン・カメラ」のような、現在の新聞・TVやラジオなどで使われなくなった、所謂「放送禁止用語」に関心があり、2016年9月21日に私の下記のブログで少し触れましたが、この時には「バカチョン・カメラ」には触れていませんでした。(まさ)
https://blog.goo.ne.jp/sin-masa/e/8a3456b58fbffb19421c0e0980e7acd6


<今日の夕食> 前歯を使わないように注意していますが、やはり肉は食べたいし、野菜も食べたくて苦労しています

湯豆腐/肉野菜炒め

肉野菜炒め 豚バラ肉をいつもより小さめにカットして、野菜類と

メインはワンタン


「ふてほど」 

2025年01月03日 19時18分56秒 | その他
 最近、若い人だけでなくかなりの年配者でも「ふてほど」という言葉を使っていますが、「不適切にもほどがある」の略語と聞いて、意味は理解できると共に、この言葉に対する違和感は全くありませんでした。

  この「不適切にもほどがある」は、昨年初めにTBS系「金曜ドラマ」で放送された阿部サダヲ主演のテレビドラマの題名で、ドラマの内容はコンプライアンスが厳しい令和時代(2024年、低成長期)とそうではなかった昭和時代(1986年、安定成長期)を舞台とするタイムスリップものであり、令和に於いては不適切表現と見なされる表現についての注意を喚起する注釈テロップが1話につき何度も挿入されていたとのことです。

 私はこのドラマを観たことがありませんので、ドラマの内容に関しては何も言えませんが、最近「ふてほど」と大声で叫びたいようなことが余りにも多いです。

 世界的な傾向として、政治体制としてある程度定着した感のあった「民主主義」が武力や排他主義・利益優先の前に非常に危ういものなっているだけでなく、我が国においては「与党内野党」をうたい文句にしていた人が、首相になるや「与党内の熟議」とかを理由にして政治資金の透明化改革などに積極的な態度を明確にしないだけでなく、自然災害被害者救済/夫婦別姓制度導入/原発廃止などには前向きな姿勢を見せない一方、介護保険の自己負担増/軍備拡大/原発復帰には積極的など、全く「与党内の正統派」のような行動をするのは「不適切」だけでなく「ふてぶてしい」『ダブル・ふてほど』とでも言える態度が拍車をかけたのでしょう。

 前の首相もそうでしたが、「丁寧に聞く」とか「親切な説明」という言葉は全くの謳い文句で、【一応聞いておきましょう】とか、【ゆっくりと話すが、中身はない】という状況にあきれるばかりです。

 このように、口と行動が全く異なっていても平気な「ふてほど」の神髄のような人が(しか?)、首相になれる政治の世界に興味がなくなるのは当然でしょうね。
正月らしくない話題かも知れませんが・・・ (まさ)